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大畑才蔵勝善 : ミニ英和和英辞書
大畑才蔵勝善[ぜん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はたけ]
 【名詞】 1. field 
: [さい]
 【名詞】 1. ability 2. gift 3. talent 4. aptitude 5. genius 
: [そう, くら, ぞう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [ぜん]
 【名詞】 1. good 2. goodness 3. right 4. virtue 

大畑才蔵勝善 ( リダイレクト:大畑才蔵 ) : ウィキペディア日本語版
大畑才蔵[おおはた さいぞう]

大畑 才蔵(おおはた さいぞう、1642年(寛永19年)~1720年(享保5年))は、日本の農業土木技術者江戸時代紀州藩で、水利事業に大きな貢献をし、小田井用水路、および藤崎井用水路の紀の川から引水した大規模かんがい用水疏水工事を行った人物として知られる。諱(いみな)を勝善という。戒名は、『浄岸慈入居士』。
== 生涯 ==
 大畑才蔵は、先祖を湯川次郎右衛門信光とし、信光から数えて第4代目当主、父・大畑与三左衛門尹光と母・妙慶の8人兄弟の次男として、禿(かむろ)村(伊都郡中組学文路村)に寛永19年(1642年)に生まれた。
才蔵は、幼い頃から非凡であった。それには、高野参詣の宿所として栄え、大坂や奈良からの人の往来が盛んであり、当時の算数の手本とされた『格致算書』(柴村盛之著)、
因帰算歌』(今村知商著)なども手に入れやすく学問を行う良い環境に育ったことがあった。
万治2年(1659年)伊都郡奉行木村七太夫に非凡さを認められ禿組大庄屋平野作太夫の補佐役である杖突に任命された。
貞享4年(1687年)、46歳のとき伊都郡奉行より仰せつかり父・尹光(ただみつ)の跡を継ぎ庄屋となった。また、郡方御用も務めた。
寛文9年(1669年) 伏原村(現・橋本市高野口町)才右衛門とともに高野山内聞役を命じられた。
才蔵は、後に紀州流〔上方流れを源流としたもので、堤防の強化と直線的に海に洪水流を早く流し、曲流部の旧河床や氾濫原を新田開発する一石二鳥の工法であった。とくに強固な二段に固めた連続堤防の構築が重要な技術としてと呼ばれる河川技術(才蔵日記より)〕を開発し、既にすぐれた測量技術や土木工法を習得していた。
才蔵は寛文10年(1670年)29歳の時に10歳年下である同郷の六左衛門の娘・菊と結婚。
元禄5年(1692年)、高野山の学侶行人派両派の対立は、幕府が学侶方の主張を認めて行人方を弾圧するした。この弾圧に才蔵は、高野山内聞役として高野山の行人派寺院約1000 院の取り壊し、僧600 人余りの島流しという高野山弾圧に関与することになった。しかし、才蔵は内聞役については気が進まなかったようである。「他言無用」と秘密扱いにするよう子孫に命じている。
 紀州藩和歌山県三重県のほぼ南半分を支配していたが、深刻な財政難に悩んでいた。藩は、元禄4年(1691年)から財政立て直しのために農政の改革に取りかかった。
元禄9年(1696年)3月24日紀州藩会所役人御勘定人格井澤弥惣兵衛為永が、大畑才蔵に地
方手代(郡代官の配下の地方役人)となって詰所に勤務し、新田開発や洪水対策さらには農業の技術を活かすよう要請した。翌日、3月25日に添奉行田代七右衛門は、才蔵を呼び〔「地方手代に給扶持方にて御抱可被下由、弥惣兵衛殿被仰聞候得共、何時にても御用之節は出可申候間、在所に御置被下候様にとお願申上候(才蔵日記)〕「貴公の希望は井澤殿から聞いた。希望通り在所に在って結構だが、御用の節には必ず罷り出でよ。その節には出扶持(藩から支給される手当)3人扶持を与える。また年に銀貨10 枚を与える」と申し付けた。この年(1696年)小田井筋や那賀郡において「水盛台」(後述)と呼ばれる水準儀〔を使用した正確な高低測量結果から、いくつかの丁場(区間)ごとの必要資材や土量、必要人員などを計算し、事業の計画と経費見積もりをした。〕により、地形の調査を行い、紀州藩内を調査し治水・用水計画を立てた。
元禄9年(1696年)4月19日から57日間、両熊野(口熊野、南熊野)地方を巡検、その後「熊野絵図」を作成した。元禄10年(1697年)閏2月から36日間、9月から53日間の2回、勢州3領の村々を視察し、伊勢一志郡新井の水盛(水による水準測量)を行った。
元禄10年(1697年)7月紀州藩支高森藩葛野藩に、〔紀伊和歌山藩主徳川光貞の三男である頼職と四男の頼方(後の八代将軍吉宗)が越前に拝領した領知のことを指しており、当時は紀州領と呼ばれていた。頼職は元禄10年(1697年)4月11日に五代将軍徳川綱吉から越前丹生郡内に63か村(割郷2か村)3万石を拝領し、頼方も同日に丹生郡内13か村6,579石9斗3升4合と坂井郡内32か村(割郷1か村)2万3,420石6升6合あわせて三万石を拝領した。これにより、紀州藩は、陣屋の設置場所や知行所の実状を把握するため、同年7月から8月にかけて、頼職領・頼方領を実地見分した。〕派遣されたのは、頼職から代官に任命された神谷与一兵衛門と、大畑才蔵であった。
彼等は、越前丹生郡笹谷村と北山村を拠点に、33里17丁(約132km)に及ぶ村々を巡見した。〔村高や反別、小物成など年貢に関することだけでなく、人情・風俗、農作業の仕方にいたるまで詳細に調べあげ報告している(大畑家文書)。〕
元禄11年(1698年)、2月11日から勢州雲出川の本流に既存の古田井堰より大規模な井堰を設けることとなった。これが、才蔵が設計・施工管理した勢州一志郡新井堰と用水路である。
南紀徳川史』「郡制第五」には、〔「一 元禄十一寅年四月 勢州一志郡新井工事完成す、一志郡甚目・須川・中林・曽原・小村・肥留三ケ村・中道・小津・星合・笠松・黒田・野田・見永・新屋庄等の拾六ケ村灌漑欠乏歳々旱損に罹るを以、雲出川より導水新渠開鑿を謀り、去年九月大畑才蔵(御勘定人並)出張、測量をなし工事予算を遂げ、本年二月十一日より起工、四月十六日に至て竣工を告く」〕と書かれている。
小木戸橋の近く、現在の一志町其村に井堰をつくり、宮古村(現嬉野町)前の中村川までの水路を整備し、古田井同様、中村川へ落とし、そこからは旧来の星合井の井溝を拡張し、村々への灌漑用水とした。この新井工事は、日数65日間、延人数2万4,230人がかかった大工事となり、多くの経費も必要であったが、これにより16ケ村内の282町の水田が永く干ばつから免れるようになった。畑地から水田となったものが60ないし70町、新田開拓が10町歩に及ぶと見込まれた。
元禄9年(1696年)から元禄14年(1701年)にかけて、藤崎用水路を開削した。
当時、紀の川右岸地帯は、中小のため池と小河川こ依存するのみで、干天つづきには灌漑用水が枯渇する不安定な耕作地だった。
この工事は、現在の紀の川市(旧那賀町)藤崎から和歌山市山口まで約23.5kmに及ぶ紀の川から引水した大規模灌漑用水工事となった。それまでは畑作地帯であったが、水田の約1千町歩を灌漑することができるようになり、紀州藩の財政の建て直しに貢献することとなった。
正徳5年(1715年)、74歳という高齢になったため藩に辞職することを願い出た。
小田から根来川にいたる小田井用水路の工事は三期にわたったが、その完成を見ることなく享保5年(1720年)、才蔵はその生涯を閉じた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大畑才蔵」の詳細全文を読む




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