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大矢 剛功(おおや ひさかつ、1964年7月2日 - )は、日本の男子プロレスラーである。石川県金沢市出身で、現在は兵庫県神戸市在住。身長185cm、体重105kg。現在はフリーランスとして日本の各団体に参戦している。かつての本名は大矢健一であったが、法的手続きを執り、本名も「大矢剛功」に変更している。 == 経歴 == 藤花学園尾山台高等学校卒業後、神戸市の体育専門学校を経て、1985年新日本プロレスに入門した〔。 1986年4月20日、蝶野正洋戦でデビュー(木更津市倉形スポーツ会館において)したが、ドン荒川が開発した新技の実験台(「都庁固め」や「市役所固め」)にされたりしていた。その後、右腕の怪我で一年休場、新日本より退団を言い渡されたが選手会の仲立ちで退団は撤回された。その後すぐに反対の腕を怪我し、1989年ごろ退団している。 ヤングライオン時代に当初越中詩郎が木村健吾と共にヤクザ役で出演予定だった映画「新宿純愛物語」に直前に怪我をした越中の代役で出演した。 1988年に結婚し、その後スポーツインストラクターに転身したが、1990年に設立されたSWSに入団してレスラー生活を再スタートさせた〔。団体内ユニットではジョージ高野率いる『パライストラ』に所属した。SWS崩壊後はNOWを経てFMWに移籍〔。ミスター・ポーゴの『W★ING同盟』に所属して、大仁田厚らとデスマッチ抗争を繰り広げる。 1995年の大仁田引退後の『新生FMW』では引き続きポーゴの軍団『リーサル・ウェポン』に属するが、次第にデスマッチとは距離を置くようになり、原点である新日本在籍時に培った「ストロングスタイル」の戦いに活路を見出す。大仁田引退直後に行われたブラスナックル王座決定戦でハヤブサと激闘を演じ、自らのストロングスタイルの実力を知らしめると同時に、団体の『新生』を印象付けることに貢献した。 その後は正規軍にも加わるようになり若手レスラーの指導なども行った時期もあった。このあたりからレスリングの実力を発揮する様になっている。 時を経て、FMWの運営方針が冬木弘道指揮下のエンタメ路線に変更されると、髪の毛の薄さをネタにされるようになり、コミッショナー冬木からカツラをつけて試合をするよう強制されるが、カツラをつけて入場した大矢は試合前に自らそれを取り去り、完全に剃りあげたスキンヘッドをみせつけた。傲慢な(キャラクターを演じていた)冬木の鼻をあかすことに見事に成功し、驚きのあまり冬木は呆然とした顔をしながら花道を後ずさりした。これをきっかけに、大矢はその後ずっとスキンヘッドを保っている。 やがて『男の中の男』のキャッチフレーズを得て、演歌歌手谷本知美をマネージャーにつけて活動。確かな存在感を見せ付ける。 FMW倒産以降は他団体に登場。2005年からは自宅から通勤可能な大阪プロレスに、2006年には無我ワールド・プロレスリングに参戦している。2008年は北都プロレスが主戦場であり、若手の川原や池田などのコーチとしても指導に当たっている。 2006年9月18日、後藤達俊との必殺技が「バックドロップ」の者同士の対決としてプロレスファンの話題になった。 2012年 宝島文庫『元・新日本プロレス』第2章において元同僚のプロレスラー片山明と共にインタヴューをうけており、近年は『北都プロレス』をメインに出場しており『レスラーとして現役』であることも報告している。北都プロレスでの若手の練習内容は「当時の新日本プロレス」のそれであり、練習内容ではメジャーと対等な内容であると語っている。 2013年腰の手術をし家族に早くやめろと言われているがお客さんを見ていると痛みがなくなるといい現在もプロレス活動は継続中。 2015年現在主に北都プロレスに参戦中。北都プロレス所属の池田昌樹、河原成幸のコーチとして活動中。兵庫で介護士の傍らプロレスは限定出場であるがバックドロップは今も健在。また2014年には地元神戸でみちのくプロレスに参戦。郡司歩とシングルを行った。 毎年年末地元の餅つきに必ず参加している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大矢剛功」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hisakatsu Oya 」があります。 スポンサード リンク
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