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大石 弥太郎(おおいし やたろう、1943年10月6日 - )は、大分県佐伯市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、97ページ〕出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 佐伯鶴城高校から阪急ブレーブスに1962年に入団し、1965年にはウエスタン・リーグで13勝を記録して投手部門のタイトルを総なめにするが、一軍では思うように成績は伸びなかった〔。1967年に大石清との「大石交換」で広島カープに入団し、これが大きな転機となる〔。当時の長谷川良平監督と出会い、「そんな球投げていて、勝てないわけないだろう。ど真ん中狙って思い切り投げればいい」と言われ、大石は開眼する〔。「タコ踊り」と呼ばれた、大きな体を十分に使ったダイナミックなフォームから繰り出される直球で打者を抑え、先発、中継ぎとフル回転し、移籍1年目に10勝を記録〔。 その後1969年から1972年まで4年連続2桁勝利〔。1975年に白石静生と共に、児玉好弘・宮本幸信・渡辺弘基との交換トレードで、阪急へ復帰、1976年オフと戸田善紀・森本潔・小松健二と共に稲葉光雄・島谷金二・大隅正人との4対3の大型トレードで中日ドラゴンズに移籍し、1979年に南海ホークスへ移籍し、1980年に引退〔。 引退後の1993年、台湾プロ野球・統一ライオンズ投手コーチに就任し、翌1994年からは監督となる。王漢や郭進興の活躍もあり、翌1995年に前後期優勝を果たす。11月のアジア・パシフィックスーパーベースボールでは、台湾のプロ野球チームとして初の国際大会優勝を成し遂げる。翌1996年は後期優勝を果たし、台湾シリーズで前期優勝の味全を倒す。大石自身も2年連続で最優秀監督(最佳総教練)に輝いた(1992年には森下正夫が、1993年と1994年には山根俊英(共に兄弟)が受賞しており、実際には5年連続で日本人監督が受賞している)。 退団後、1998年より沖縄県名護市に移住。安仁屋ベースボールTRY投手コーチを経て、2010年からは名桜大学で投手コーチを務めている。2015年シーズン終了後からエナジック硬式野球部の監督に就任した。 アマチュア指導の傍ら、沖縄フルーツランドの支配人も務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大石弥太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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