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大石清 : ミニ英和和英辞書
大石清[おおいし きよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 

大石清 : ウィキペディア日本語版
大石清[おおいし きよし]

大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者、野球解説者野球評論家
== 経歴 ==
清水商業高校卒業後、に広島カープへ入団。同期には後に阪急ブレーブスでもコーチとして同僚となる上田利治らがいた。
選手の給料もままならない弱小・広島において、1年目から39試合に登板して9勝を挙げ主戦投手となる。2年目のにスライダーを覚えて〔『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』42頁〕リーグ2位の26勝をあげ、衰えの見えた長谷川良平に替わりエースにのし上がる。27勝、20勝と3年連続20勝を打ち立て、さらに3年連続で200奪三振を記録する一方で、100を越える四死球を与え3年連続最多与四死球も記録している。なおこの間、1960年1962年オールスターゲームに出場した。
に10勝(22敗)とやや落ち込むが、は17勝、防御率2.92(10位)と復活し、3度目のオールスターに選ばれている。その後は右を痛めて勝ち星を伸ばせず〔『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』44頁〕、以降はわずか4勝に終わる。
オフに大洋ホエールズから大石獲得の申し出があり、広島側は交換相手として長田幸雄を要求するものの決裂。大石の低迷により投手補強を目論んでいた広島は阪急ブレーブス大石弥太郎に目を付け、"大石清⇔大石弥太郎" の「大石交換」が成立した。
頃の阪急投手陣には足立光宏米田哲也梶本隆夫ら10年選手が先発陣に腰をすえていたこともあり、大石はリリーフに転向して復活する。この年、42試合に救援登板し、5勝、防御率2.59を記録、移籍1年目ながらチーム創設32年目の初優勝に貢献した。その後、阪急は3年連続優勝を遂げ黄金時代を迎えるが、大石も毎年40試合以上に救援登板して、交代完了数も20試合前後に及び、には4年ぶりに10勝を挙げている。0勝に終わった限りで現役引退
引退後、指導者としての素質が開花。阪急投手コーチ(1972年 - 1974年)、近鉄投手コーチ(1975年 - 1976年)、古巣・広島(1977年一軍投手コーチ, 1978年 - 1981年二軍投手コーチ)、日本ハム一軍投手コーチ(1985年 - 1987年)、阪神二軍投手コーチ(1988年 - 1989年, 1993年 - 1994年二軍投手コーチ、1990年 - 1992年一軍投手コーチ)、日本ハム一軍投手コーチ(1995年 - 1997年)、近鉄一軍投手コーチ(1999年)と30年間で5球団を渡り歩く。広島コーチ時代には川口和久金石昭人、阪神コーチ時代には湯舟敏郎中込伸猪俣隆葛西稔野田浩司仲田幸司田村勤弓長起浩、日本ハムコーチ時代には岩本勉今関勝島崎毅関根裕之高橋憲幸を育てた。
この間、阪急・広島で2度優勝を経験する(広島コーチ時代の1979年1980年には日本一も経験)。リーグ優勝ではないものの、近鉄コーチ時代の1975年にはパ・リーグ後期優勝にも関わる。
コーチ業の間を縫う形でTBS中国放送の解説者、スポーツニッポン評論家も務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大石清」の詳細全文を読む




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