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大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者、野球評論家。 == 経歴 == 清水商業高校卒業後、に広島カープへ入団。同期には後に阪急ブレーブスでもコーチとして同僚となる上田利治らがいた。 選手の給料もままならない弱小・広島において、1年目から39試合に登板して9勝を挙げ主戦投手となる。2年目のにスライダーを覚えて〔『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』42頁〕リーグ2位の26勝をあげ、衰えの見えた長谷川良平に替わりエースにのし上がる。27勝、20勝と3年連続20勝を打ち立て、さらに3年連続で200奪三振を記録する一方で、100を越える四死球を与え3年連続最多与四死球も記録している。なおこの間、1960年と1962年にオールスターゲームに出場した。 に10勝(22敗)とやや落ち込むが、は17勝、防御率2.92(10位)と復活し、3度目のオールスターに選ばれている。その後は右肘を痛めて勝ち星を伸ばせず〔『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』44頁〕、以降はわずか4勝に終わる。 オフに大洋ホエールズから大石獲得の申し出があり、広島側は交換相手として長田幸雄を要求するものの決裂。大石の低迷により投手補強を目論んでいた広島は阪急ブレーブスの大石弥太郎に目を付け、"大石清⇔大石弥太郎" の「大石交換」が成立した。 頃の阪急投手陣には足立光宏、米田哲也、梶本隆夫ら10年選手が先発陣に腰をすえていたこともあり、大石はリリーフに転向して復活する。この年、42試合に救援登板し、5勝、防御率2.59を記録、移籍1年目ながらチーム創設32年目の初優勝に貢献した。その後、阪急は3年連続優勝を遂げ黄金時代を迎えるが、大石も毎年40試合以上に救援登板して、交代完了数も20試合前後に及び、には4年ぶりに10勝を挙げている。0勝に終わった限りで現役引退。 引退後、指導者としての素質が開花。阪急投手コーチ(1972年 - 1974年)、近鉄投手コーチ(1975年 - 1976年)、古巣・広島(1977年一軍投手コーチ, 1978年 - 1981年二軍投手コーチ)、日本ハム一軍投手コーチ(1985年 - 1987年)、阪神二軍投手コーチ(1988年 - 1989年, 1993年 - 1994年二軍投手コーチ、1990年 - 1992年一軍投手コーチ)、日本ハム一軍投手コーチ(1995年 - 1997年)、近鉄一軍投手コーチ(1999年)と30年間で5球団を渡り歩く。広島コーチ時代には川口和久・金石昭人、阪神コーチ時代には湯舟敏郎・中込伸・猪俣隆・葛西稔・野田浩司・仲田幸司・田村勤・弓長起浩、日本ハムコーチ時代には岩本勉・今関勝・島崎毅・関根裕之・高橋憲幸を育てた。 この間、阪急・広島で2度優勝を経験する(広島コーチ時代の1979年・1980年には日本一も経験)。リーグ優勝ではないものの、近鉄コーチ時代の1975年にはパ・リーグ後期優勝にも関わる。 コーチ業の間を縫う形でTBS、中国放送の解説者、スポーツニッポン評論家も務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大石清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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