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大石 真虎(おおいし まとら、寛政4年(1792年) ‐ 天保4年4月14日(1833年6月1日))は、江戸時代中後期の名古屋の浮世絵師。 == 来歴 == 葛飾北斎、沼田月斎、張月樵の門人。姓は小泉、後に大石。幼名は吉太郎、後に門吉、小門太、衛門七、寿太郎、順平など度々改称している。鞆舎、樵谷、真虎と号し、「年魚市郡故郷(あゆちぐんこきょう)」という印を使用している。父は尾張国春日井郡の医者、小泉隆助。母は大坂の狂歌師、一本亭芙蓉の娘で、真虎は次男として生まれている。一説に小泉家は大石良雄の後裔という理由により、大石姓を称したといい、名古屋に移住したとされる。真虎は幼時より絵画に秀で、師にも恵まれていた。後に江戸に出て、京都、大坂などを放浪し、名古屋へ戻って門前町清寿院向い(現・中区大須)に住んだ。頗る奇行をなしたといわれ、作画期は文政元年(1818年)から没年までの15年ほどで、主に絵本の挿絵や肉筆浮世絵の風景画を描いた。文化3年(1808年)、張月樵に師事をする前に浮世絵を沼田月斎に学び、また、名古屋へ着た北斎に就いたといわれる。そして、月樵の下で樵谷と号して絵画の基礎を学んだ後に中年の頃、名古屋に戻ったおり、吉川一渓に仏画、西村楠亭に人物画を教わり、さらに渡辺清にも就いて有職故実を学んで真虎と号し、土佐派の画法をも習得している。江戸では深川一色町網打場辺りに住み、この頃、松平定信の命により、舞楽の木偶の模様を描くこととなり、以降、故事に関心を持つようになったともいわれる。前述のように様々な画法を学んでもそれに飽き足らず、京都、大坂、長崎、厳島などを数回にわたり、往来していた。 代表作として、文政11年(1828年)刊行の絵本『麁画(そが)国風』、文政12年(1829年)刊行の雑排書『神事行灯初篇』、天保年間刊行かと思われる絵本『張替行灯』、天保3年(1832年)刊行の絵本『麁画百物』及び天保4年刊行の『百人一首一夕話』(尾崎雅嘉著)が挙げられる。真虎は当時の名古屋において牧墨僊と並んで名声を得ており、晩年、名古屋に戻ってからは画業に専念し、画風は北斎に似ている点もあったが、江戸の物とは異なり、四条派、土佐派、浮世絵を融合した独自の風俗画を描いた。しかし、30余歳の時、病に侵され耳が不自由になったといい、奇行のうちにその生涯を終えた。享年42。墓所は大須真福寺。法名は阿闍遊林。 川崎千虎が私淑しており、『大石真虎伝』を著し、その号も真虎に因んだものであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大石真虎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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