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大神 信房(おおみわ のぶふさ、生年不詳 - 延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の神官・武将。大神神社の神主の大神勝房(三輪西阿)の次男。通称は神二郎(しんじろう)。 大神神社(奈良県桜井市三輪)の神官〔『刋本三輪叢書 系譜』〕。三輪高市麻呂を祖とする代々、大神神社の神主を世襲した社家の人物でありながら、南北朝の内乱の際には一族ともに南朝に属して武将として活躍した。延元3年(1338年)に北朝側(高師直・細川顕氏ら)と戦い、阿倍野(大阪市阿倍野区)で戦死〔『刋本三輪叢書 系譜』の「延元三年五月廿二日 於安倍村討死」〕。 == 概要 == 大神神社の神主の次男として生まれた神官であるが、1338年の北畠顕家の上洛軍に従軍したとも考えられる。顕家は前年より奥州の霊山城から西へ進軍し、同年2月に奈良に入り、般若坂の戦いで人生初の敗戦を経験している。顕家は同じく南朝側の大神氏に援軍を要請し、信房はその前後に合流し武将として戦い、天王寺の戦いや石津の戦いにも従軍していた可能性が指摘される。同年5月22日に阿倍野で戦没した〔『刋本三輪叢書 系譜』〕という記録に鑑みた経緯である。顕家の軍は和泉国の坂本郷・観音寺城(大阪府和泉市)を拠点にして、高師直と細川顕氏ら率いる北朝・室町幕府軍らと戦った。顕家は石津の戦いで戦死したが、なぜか信房は同日に約10km離れた阿倍野で戦死している。 信房は武将として自立した軍を指揮したのか、それとも神職としての顕家の軍師となったかは不明だが、大神氏は父の勝房を筆頭に後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた頃から南朝に属していること、顕家と同じ日に共に現在の大阪で戦死したこと、子孫が北畠氏に仕えていることから、信房の従軍は必然的あるといえる。また、当時の石津および堺浦(大阪府堺市)は漁港を中心とした南朝の経済的基盤の地であったが、室町幕府により商売を停止させられ、奈良に魚介類が流通しなくなり春日神社なども大打撃を受けた事実がある。石津の合戦は、いわば南北軍の堺争奪戦でもあった。このことから信房が顕家に従軍したのは単に南朝側だったからだけでなく、奈良の大神神社にとっては重要な経済拠点である堺を奪還する目的があったとの説も存在する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大神信房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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