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大空ヒット・三空ますみ(おおぞらヒット・みそらますみ)は戦後にかけて活躍した夫婦漫才コンビ。コンビ時代は漫才協会所属(晩年相談役)。 師匠は東京漫才の始祖「東喜代駒・駒千代」、同門には「都上英二・東喜美江」「Wけんじ」がいる。 == 概要・来歴 == ヒットの小深田姓は大分地方の由緒ある名家で母方の先祖も武家の出であったという、のちに小深田家祖父の養子になった。兄弟は6人兄弟、ヒットは文学や講釈の本を読むなどインテリな青年であった。15歳の時には台湾にいた事もある。1930年12月に両親に勘当され、その年の8月の末には小さな芝居の一座に入る。2、3ヶ月で退団し12月には名古屋の徳川琴子一座に入る。このころ舞踊の修行を積む。18歳の夏に広島の新天座で興行を打った際に近所で初めて漫才を見る。その後山口岩国を経て再び広島の新天座にいた時に舞台の合間で近所で演芸場に足を運び島陽之助一座(陽之助・洋子)の剣劇漫才、永田キング・ミスエロ子の漫才を見て衝撃を受け漫才に転向。ナンセンスレヴューの一座を発案後に九州を巡業。再び1932年7月に山口別府なの字館のスタッフに五條家弁慶・牛若の紹介を受け一座に入る。最初の相方は荒川(下の名前は不明)とのコンビでデビュー。1933年8月に微兵検査。本格的に漫才の修行のために大阪に行くが地に馴染めず東京に上京を決意。道中立ち寄った滋賀近江八幡で五條家若二の一座に出会い入る。その一座にいた若二の弟とで2人で当時人気だった早慶戦などの野球の用語に因んで第1次「青空クリーン・大空ヒット」を結成。相方の兄が病気(のちに死去)のために家業を継ぐためにコンビ解消。1934年に相方の紹介で神戸で昼は紙芝居、夜は神戸YMCA学院声楽科で発声などの勉強を積む。 その後一人で地方や大阪を回っていたが、たまたま大阪の寄席の手見せで都上英二と出会い第2次「青空クリーン・大空ヒット」を結成。1938年に上京し、かしまし娘の両親が座長の一座にクリーンともに籍を置いたが、クリーンが一座を離れたために自身もその一座も離れ、6ヶ月ほど女性のかほる(亭号不明、元安来節の大和家三姉妹の末妹で当時夫婦を組んでいたが夫が戦争に出征したために相方を探していた)と組む。このころ東京で東駒千代に出会い東喜代駒の紹介を受ける。駒千代とコンビを組んだ事もある。駒千代とのコンビはヒットがハーモニカを奏でるハーモニカ漫才であった。1939年夏に松竹演芸部に入る。1943年秋には吉本興業(東京吉本)に移籍し、自らの一座「大空ヒットと漫劇集団」を結成。江東花月や池袋花月に出演し、人気を得る。その後、待遇面からの不満から吉本を離れ、一座も解散。 戦後の1946年1月にカルテットのボーイズ「混線四重奏」を結成しギターを担当。メンバーの中にはのちに小島宏之とダイナブラザーズの小島宏之がいた。1948年12月にボーイズ解散。再びかほるとコンビを組む。一座も結成。この一座に妻となる三空ますみが入ってくる。1952年に妻を相方にし「ヒット・ますみ」でスタート。タイムリーな時事ネタで人気を得る。一時期ニッポン放送の「お笑い丸金亭」(丸金自転車がスポンサー)を皮切りにテレビ、ラジオの多数レギュラーを抱えるほどブレイクする。昭和30年代半ばには日比谷東宝演芸場を拠点とするコロムビア・トップ・ライトを頂点とした青空一門との対立で東京漫才界を分裂する騒動が起こる。大空ヒットは一門を引き連れ浅草松竹演芸場を拠点とする。その後昭和40年代頃まで活躍したが徐々に人気も落ち、1970年に離婚引退解散をした。解散後ヒットは執筆活動や後進の指導などで表舞台から離れた。私生活ではヒットは別の女性と再婚をするも再び離婚、4年間の闘病、芸人に復帰し、1984年にNHKお好み演芸会で十八番の「弟の便り」を演じるも、左足が不自由になり、その後は90歳を超える母の介護等をしていたが母が没後、大分のふるさとに帰り引退し、のちに没した。 ヒットは自叙伝「漫才七転び八起き」「笑いの話術」「笑わせる話術」などがある。 ヒットは大阪の漫才作家・秋田實を尊敬していた。秋田が東京で仕事がある際は自宅に招き漫才談義をよくしていたという。自宅には秋田専用の部屋、専用の茶碗、箸まであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大空ヒット・三空ますみ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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