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大竹多氣 : ミニ英和和英辞書
大竹多氣[た]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たけ]
 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) 
: [た]
  1. (n,pref) multi- 

大竹多氣 ( リダイレクト:大竹多気 ) : ウィキペディア日本語版
大竹多気[おおたけ たけ]

大竹 多氣(おおたけ たけ〔『日本人名大辞典』353頁〕〔『学位大系博士録』(昭和15-16年版)〕/おおたけ たき〔『海を渡った日本人名事典』173頁〕、文久2年10月7日1862年11月16日) - 大正7年(1918年7月19日)は、日本工学者。を専門とし、日本の染色技術、毛織物工業の近代化に貢献した工学博士である。 千住製絨所長を経て、米沢高等工業桐生高等染織学校の初代校長を歴任。ペンネームは大竹美鳥、みどり、雅号碧玉〔大竹多氣の生涯と染織技術による殖産興業への業績』104頁〕。
==生涯==

===生い立ち===
父は会津藩士松田俊蔵である〔*>大竹の実父は戦後も健在であったが、山川健次郎編『戊辰殉難名簿 校訂』では「国産方松田俊蔵」が戦死者として扱われている。国産奉行河原善左衛門の配下として出陣し、負傷した善左衛門の長男を背負って後退した武士が「国産方松田俊蔵」で、この長男は俊蔵の背で落命した。『慶應年間会津藩士人名録』には御用所役人松田俊蔵(25石4人扶持)、江戸上屋敷御書簡所役人として松田俊三の記載がある(『慶應年間会津藩士人名録』(勉強堂書店)29頁、138頁)。〕。会津時代の松田家は御薬園付近にあったが、藩の蝦夷地支配に従って同地に赴き、大竹は現在の北斗市に生まれた〔『山形大学工学部百年史』488頁〕。四男であった大竹は慶応3年(1867年)に同藩士大竹作右衛門の養子となる。長兄精介は鳥羽・伏見の戦いに参戦し、箱館戦争を戦った。養父の作右衛門も会津遊撃隊士として箱館戦争まで戦っている。作右衛門は斗南藩会計掛〔『慶應年間会津藩士人名録』(勉強堂書店)、215頁〕を務め、いくつか事業に失敗した後、回漕業で成功した〔『大竹多氣の生涯と染織技術による殖産興業への業績』109頁〕。
大竹は会津戦争では熱塩村などへ避難し、戦後は塩川での生活を経て斗南へ移住した。明治6年(1873年)に上京し、有馬私学校〔*>久留米藩藩主有馬氏が創設した学校。この時期に明治維新を主導した藩出身者からは「賊の子」といじめを受けていた(『山形大学工学部百年史』489頁、注記13)。この同窓生はのちに国家レベルの要職に就いた華族である。〕、 攻玉社〔*>弟の松田甲松平喜徳松平容大も攻玉社の卒業生である。松田甲には『日鮮史話 』などの著作があり、その業績が研究対象となっている(『山形大学工学部百年史』504頁、注記17)〕、工部寮小学部を経て、1883年(明治16年)に岩崎彦松ら5名と工部大学校機械工学科を卒業した〔『東京帝国大学一覧 明治28-29年』435頁〕。大学校時代の大竹は病気がちであったが、英語力に長足の進歩を示し、ウォルター・スコットの『』の翻訳〔*>この詩集は大部なもので、複数で手分けして翻訳を行ったが完成には至らなかった。大竹は再度翻訳に挑んだ形跡があり、また英国留学中に舞台となったスコットランドを訪れている。〕、雑誌少年園への寄稿など文学方面の活動も行った。佐佐木信綱によれば新体詩抄にも関わっている〔『山形大学工学部百年史』492頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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