|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 竹 : [たけ] 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) ・ 二 : [に] 1. (num) two
大竹省二(おおたけ しょうじ、1920年(大正9年)5月15日 - 2015年(平成27年)7月2日)は、日本の写真家。静岡県出身。 ==経歴== 人物を撮影した写真が中心である。特に女優など女性のポートレート写真が多い。 1920年(大正9年)静岡県小笠郡大須賀町(現・掛川市)に生まれる。中学生の頃よりアサヒカメラなどのカメラ雑誌に写真の投稿を始め、コンテストへの入選を重ねる。 10代の後半には有望なアマチュアカメラマンとして著名になった。 1940年(昭和15年)中国上海在住の伯父を頼り渡航。上海の東亜同文書院に入学する。この年、学徒応召。1942年(昭和17年)応募した写真が農林大臣賞と読売新聞社賞を同時に受賞する。1944年(昭和19年)軍報道部、憲兵司令部で報道写真を担当し北京大使館報道部付となる。この時、加藤恭平・林忠彦などと共に北京大使館の外郭団体・華北広報写真協会設立に協力する。 1945年(昭和20年)中国から東京に復員。翌、1946年(昭和21年)には連合国軍総司令部(GHQ)報道部の嘱託となる。1949年(昭和24年)秋山庄太郎、稲村隆正らと日本青年写真家協会を結成する。1950年(昭和25年)INP社東京支局の写真部長となるが、人員縮小となったため退社しフリーカメラマンとなる。1951年(昭和26年)再刊されたアサヒカメラで世界の一流音楽家の連載写真を担当することとなり、以後、このシリーズは5年間連載された。1953年(昭和28年)秋山庄太郎、林忠彦らと共に二科会写真部の創立会員となる。 1970年(昭和45年)アイシンク社を設立し、以後8年間社長を務める。1974年(昭和49年)松本清張原作の『砂の器』が映画化(監督・野村芳太郎、主演・加藤剛)された際に教授役で特別出演した。また、同じく松本清張原作の映画『わるいやつら』(監督・野村芳太郎、主演・松坂慶子)でも部長刑事役で特別出演した。 ミス・ユニバース日本代表だった織作峰子は大竹に師事し、その後写真家として独立した。 1992年(平成4年)日本写真協会功労賞を受賞。2003年(平成15年)二科会写真部理事長・創立会員となる。 2015年(平成27年)7月2日、心原性脳塞栓症のため死去〔大竹省二さん死去 女性のポートレート、戦後の写真をリード スポーツニッポン 2015年7月6日閲覧〕。95歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大竹省二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|