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大翔鳳 昌巳(だいしょうほう まさみ、1967年5月7日 - 1999年12月4日)は、北海道札幌市豊平区平岸出身で立浪部屋所属の元大相撲力士。本名は村田 昌巳(むらた まさみ)。最高位は東小結。全盛期の体格は187cm、144kg。得意手は突っ張り、右四つ、上手投げ。現役時代はその人柄の良さと礼儀正しさで好感力士として知られた。 == 経歴 == 相撲で19回も北海道代表として国体に出場した父の指導で、中学生の頃から相撲を始める。北海高等学校時代には北海道代表として国体に出場した。(兄もバスケットボールで出場を果たす)日本大学でも相撲部に所属。上位入賞の常連だったが、学生横綱などのビッグタイトルとは無縁だった。大学卒業後にプロの力士を志し、大学時代に出稽古に行き、かつ先輩の大翔山が所属していた立浪部屋に入門する。 1990年1月場所幕下付出で初土俵。1991年1月場所新十両、7月場所新入幕。「大翔鳳」の四股名は日本大学相撲部監督と立浪親方(元関脇・安念山(のち羽黒山))が命名した。北海道勢の中でも札幌市出身関取は大翔鳳が史上初であり、札幌出身者の新入幕もまた大翔鳳が初めてであった。〔<5> 畳の雪駄 道産子横綱 誕生願う 北海道新聞 呼び出しの世界 大相撲を支えて 2006/05/13(土) 朝刊〕 1992年9月場所には前頭8枚目で貴花田(のち貴乃花)と終盤まで優勝を争い、11勝4敗の好成績で初の三賞(敢闘賞)を受賞。1993年1月場所小結に昇進。同年11月場所に足を負傷してからは不本意な成績が増えたが、1995年1月場所は前頭11枚目で11勝を挙げて敢闘賞(2度目)を受賞。同年3月場所には再度小結に返り咲いた。しかし前頭筆頭だった1996年11月場所は、ケガの影響でわずか1勝しかできず、次の1997年1月場所でも左腕の負傷により途中休場し十両に陥落。 その後も幕内復帰を目指して十両の地位で相撲を取り続けていたが、1999年3月場所後に体調を崩し精密検査を受けたところ、膵臓癌が発見された(当初は本人には告知されず、急性膵炎との診断だった)。これ以上力士を続けては危ないと考えて翌5月場所を全休し、同年6月11日付けで引退し準年寄・大翔鳳を襲名。その後は入院しながら闘病生活を送っていた。 1999年10月3日に、高輪プリンスホテルで「時機を逸するといけないから」と、日本大学時代の同級生で親友でもあった舞の海らによって、急遽断髪式が行われた。闘病の影響からか、140キロ以上あった体重は90キロ程までに激減し、断髪式当日には髷さえなければ元力士とは思えないほどに痩せてしまっていた。整髪後の挨拶では病気の克服を出席者の前で誓っていたが、その断髪式からわずか2か月後の同年12月4日、治療の甲斐もなく膵臓癌により没した。32歳の若さだった。 後に十両昇進を果たした後輩力士が、NHK大相撲の新十両インタビューにおいて「(大翔鳳に)昇進を伝えられるものなら伝えたい」というコメントを残しており、後輩から慕われた様子が窺える。また、後輩として入門した智ノ花が取的時代、思わず大学の先輩に戻って指導してしまった時にも、真剣に聞いていたという。真摯な人柄を偲ばせるエピソードである。 なお、大翔鳳と同じく1967年生まれで病気により若くして死去した元幕内力士は、龍興山(22歳没)・剣晃(元小結・30歳没)・大輝煌(41歳没)がいるが、そのうち龍興山と剣晃の2人は現役中であった。 日大時代の恩師・田中英寿監督夫人はJR中央線阿佐ヶ谷駅南口前で「大翔鳳」と言うチャンコ料理屋(現在は「たなか」に改称)を経営していて、実子のいない監督夫妻も大翔鳳を養子に迎えようと言う意向があったとも言われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大翔鳳昌巳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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