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大翔鵬 清洋(だいしょうほう きよひろ、1994年8月28日 - )は、モンゴル・ウランバートル市出身で、追手風部屋所属の大相撲力士。本名はチミデレゲゼン・シジルバヤル。身長182cm、体重146kg。最高位は西幕下2枚目(2015年11月場所)。 目標とする力士は朝青龍。 ==来歴== モンゴルの首都であるウランバートルでシジルバヤル少年は幼少期を過ごした。小学校4年生までは勉強に打ち込み、クラスを振り分ける試験にも合格して5年生からは特進クラスに入れることになっていた〔ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2015年10月号(秋場所総決算号) 83頁〕。しかし、この頃母親が日本への留学を志して既に単身来日していたこともあり、シジルバヤルも父親と一緒に日本へ引っ越すことになり、柏市立柏第二小学校に転校した〔ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2013年8月号(名古屋場所総決算号) 69頁〕。来日当初は日本語に不自由したが、3ヶ月ほどで日本語を話せるようになり、今ではベラベラと話すことができる。 初めて相撲を取ったのは小学校4年生の時であり、学校対抗で開催された柏市の大会に駆り出され、敗れはしたものの柏市相撲スポーツ少年団にスカウトを受けて相撲を始めることになった。柏市立豊四季中学校に入学した頃は野球にも興味を示し、野球部に入部したものの、「プロになれるわけではなく、楽しいだけで終わってしまう」という理由で退部し、再び相撲の稽古を始めると、野球で体が鍛えたために以前は勝てなかった相手と五分に渡り合えるようになっていた。また、父親と千昇が知人という関係から、大相撲の式秀部屋で稽古を積んだこともあるが、中学生ながら既に序二段力士と対等に渡り合っていたという。〔 中学校を卒業した後は、千葉県でも屈指の強豪相撲部を擁する千葉県立流山南高等学校に進学。高校の同期には阿炎(本名:堀切洸助)がいた。1年次に出場した千葉県の新人戦では団体メンバーとして高校を19年ぶりの優勝に導き、個人戦でも優勝(2位は阿炎)の成績を残した〔ぐるっと流山 流山南高校相撲部が県大会で優勝 流山市〕。2年次には全国高校相撲選抜大会で鳥取城北のアルタンホヤグ・イチンノロブ(後の逸ノ城)と決勝戦で対戦して敗れ、準優勝〔平成24年の試合記録・結果 公益財団法人 日本相撲連盟〕などの実績はあるが、全国大会で優勝したことは無かった。しかし、当時阿炎と共に出稽古した明治大学相撲部では、大学生を凌駕するほどの実力を発揮していたという。なお、この頃は学業でもクラスでトップクラスの成績であったという〔。 高校卒業後は以前から声をかけてもらっていたという追手風部屋に入門し〔甲子園球児ら新弟子検査で異色16人受検 日刊スポーツ 2012年12月26日(2015年10月1日閲覧)〕、2013年3月場所で初土俵を踏んだ。大翔鵬の四股名の由来は、師匠・追手風の現役時代の四股名である「大翔山」から「大翔」を、同郷出身で一門の先輩となった横綱白鵬から「鵬」 を取ったものである。入門同期生には同部屋の遠藤らがいる〔新弟子検査、遠藤ら39人が合格 大相撲春場所 日本経済新聞 2013年3月10日(2015年10月1日閲覧)〕。前相撲は一番出世で、初めて番付に載った同年5月場所は序ノ口でこの場所優勝の新栄山に破れただけの6勝1敗。続く7月場所は序二段で7戦全勝優勝し〔日本相撲協会公式Twitter 〕、三段目は3場所で突破。2014年3月場所で初めて幕下に昇進して以降はその地位に定着し、横綱鶴竜の付け人に付いた。2015年3月場所では初めて、関取昇進の可能性がある幕下15枚目以内の番付まで昇格しているが、3勝4敗と負け越した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大翔鵬清洋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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