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大舘氏(おおだちし)は、日本の姓氏のひとつ。大館氏とも表記する。”おおだて”と読む場合もある。 == 概要 == 新田政義の次男大舘家氏を祖とする。本姓は河内源氏(清和源氏義家流)。家氏は上野国新田郡(新田荘)大舘郷(おおたちごう)〔現在の群馬県太田市大舘町〕に住み大舘二郎(次郎)を名乗った。家紋は大中黒、酢漿草(かたばみ)が基本であるが、このほかに、二引両や三巴、笹竜胆などを使う家系もある。 南北朝時代には、家氏の子宗氏が元弘3年(1333年)に新田義貞の鎌倉攻めに右軍大将として子の氏明・幸氏・氏兼らと参加した。しかし宗氏は極楽寺坂で戦死している(東勝寺合戦)。現在、鎌倉稲村ヶ崎に大舘宗氏主従11人塚が建立され、その事績を残している。 嫡系を継いだ氏明は建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いにおいても脇屋義助とともに和田岬(兵庫県神戸市兵庫区)に布陣して戦う〔『太平記』巻十六「兵庫海陸寄手の事」、同「新田殿湊川合戦の事」〕。その後は義貞の元を離れ一時足利方に降伏していたが、逃れて南朝方として活動し伊予国守護となる〔『太平記』巻二十二「義助予州へ下国の事」〕。1342年9月3日に北朝方の細川頼春の攻勢のため世田城で自害した〔『太平記』巻二十二「大館左馬助討死の事付けたり篠塚勇力の事」〕。このほか南北朝の動乱期には大舘姓の武士が南北入り乱れて活躍していることが諸記録に散見されるが、各々の人物の系譜関係については不明である。 その後、氏明の子義冬は九州に隠れていたが、北朝方の佐々木道誉に見いだされる。義冬は道誉の息女を室に迎え近江草野荘を与えられる。室町幕府に出仕し、治部少輔に任官した。この系統の大舘氏は室町幕府内では、足利氏と同族(源義家子息義国流)の新田氏支族であった所以で、大舘一族は政所奉行人を務めるに至った。 3代軍義満の親衛隊として組織された五ケ番衆の第五番衆の番頭を代々務め、大舘一族の多くが奉公衆に所属した。8代将軍足利義政の乳母今参局や義政側室の大舘佐子も大舘氏の出身である。また、佐子の甥に当たる大舘尚氏(常興)は書札礼の大家として有名であり、小笠原氏や伊勢氏とならび室町幕府の故実家として活躍、『大舘常興日記』『大舘常興書札抄』を著した。子の晴光は故実家としてだけでなく、足利義輝と上杉謙信との交渉にも関わっている。 中先代の乱ごろ以降、本貫の地の上野新田荘は足利氏の支配下にあり、父系が足利・母系が新田の岩松氏が直接支配することになる。しかし、それ以降もこの系統の大舘氏は16世紀初頭にいたるまで、新田荘の大舘郷を所領としている(大舘持房行状)。 現在、新田荘の大舘氏の居館跡は大舘館跡として城碑が立つ。ただし遺構はほぼ消滅している。 室町幕府滅亡とともに大舘氏も没落した。ただし足利義昭に仕えた大舘晴忠(晴光の甥)は同じ奉公衆の大草公重の娘を正室としており、公重に男子が無かったため、晴忠と公重の娘との間の子たる公継・公信・高正は、大草氏を継いで旗本として江戸幕府に仕えた。このため血筋は江戸時代も続いている。 また、氏明の子孫としては伊賀国に拠った大舘氏がある。関岡氏ともいい、義冬の兄伊賀守氏清の子孫と伝える。また阿波国の細川氏に仕えた一族もあり、こちらは氏明の子成氏が祖だという。 この他に関東に残存した系統もあり、「上杉禅秀の乱」などに新田一党として大舘氏が参戦している(鎌倉大草紙)。この一派の一部は、戦国時代には後北条氏配下で、武蔵国の他国衆の山口氏の支配の地侍あるいは家臣として土着し、小田原征伐による北条氏敗北後に徳川家康が関東に移封になると、在地の名主、村役人階級として帰農したものと思われる。 幕末には、尊王志士の大舘謙三郎がみえる。この謙三郎の系譜関係は不明。彼は新田荘の医家で、この地の領主岩松俊純を盟主にした「新田官軍(新田勤王党)」という草莽の倒幕隊を、彼が中心となって組織し、戊辰戦争で功を立てた。この功績により、この系統の岩松氏が明治政府により新田の直系とみなされ(この他に由良氏も主張するも却下)、明治期に新田に「復姓」し新田男爵家を立てる。一方、幕府側としては、最下級幕臣の大舘昇一郎(本国上野、生国武藏)が彰義隊士として活躍し、丸毛靭負に見いだされ、箱館戦争では小彰義隊頭取になり戦死している。大舘昇一郎も本国上野とあるため、新田大舘氏の系譜であると思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大舘氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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