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大藏 满彦(おおくら みつひこ、1932年 - )は、日本の実業家、映画プロデューサーである〔''大蔵満彦''、日本映画データベース、2012年6月9日閲覧。〕〔''大蔵満彦''、キネマ旬報映画データベース、2012年6月9日閲覧。〕。俳優時代の芸名は大江 満彦(おおえ みつひこ)〔''大江満彦''、日本映画データベース、2012年6月9日閲覧。〕〔''大江満彦''、キネマ旬報映画データベース、2012年6月9日閲覧。〕。大蔵映画代表取締役社長、東京都興行生活衛生同業組合理事長、全国興行生活衛生同業組合連合会会長、全国興行自由国民会議代表〔全興連組織一覧 、全国興行生活衛生同業組合連合会、2012年6月9日閲覧。〕〔その他の政治団体一覧 、総務省、2012年3月31日現在、2012年6月9日閲覧。〕。富士映画取締役を歴任。 == 人物・来歴 == 1932年(昭和7年)、東京府(現在の東京都)に生まれる。父は当時活動弁士でその後、富士映画を起こし、新東宝社長となる大蔵貢、叔母(父の実妹)は香取みほ子、叔父(父の実弟)は歌手の近江俊郎。 映画界の記録に残るもっとも古い記録は、1956年(昭和31年)3月13日に新東宝が配給して公開した、近江俊郎製作・監督の映画『剣豪対豪傑誉れの決戦』で、「企画」にクレジットされている〔〔。翌1957年(昭和32年)9月14日に公開された近江俊郎製作・監督の映画『坊ちゃんの主将』で、「大江満彦」の名で俳優としてデビュー、以降、1959年(昭和34年)6月6日に公開された曲谷守平監督の映画『暴力娘』までは、富士映画の取締役を務める傍ら、富士映画や新東宝の製作作品で、俳優業を務める〔〔。同年9月18日に公開された小林悟監督の『十代の曲り角』でプロデューサー業に戻り、「製作」としてクレジットされ、以降、同世代の小林監督の作品を多く手がけた〔〔〔〔。 1960年(昭和35年)12月1日、父の大蔵貢が新東宝の代表取締役社長を退陣し〔田中、p.332.〕、富士映画を改組して、1962年(昭和37年)1月に大蔵映画を設立、父・貢が代表取締役社長、叔父・近江俊郎(大蔵敏彦)が副社長、大蔵満彦は取締役に就任した〔田中、p.451.〕。 1978年(昭和53年)9月15日、父・貢が急性肺炎のため死去、大蔵映画の経営を継承し、代表取締役社長に就任する。1992年(平成4年)7月5日には、長年副社長を務めた叔父・近江俊郎が死去した。 長年、大蔵映画社長を務めるとともに、東京都興行生活衛生同業組合理事長、および全国興行生活衛生同業組合連合会の会長を務め、日本の映画興行の中心人物として、その発展を推進している〔「高校生友情プライス」キャンペーン&工藤静香さん映画大使就任 、東宝、2005年6月21日付、2012年6月9日閲覧。〕〔第56回「映画の日」中央大会 、産經新聞、2011年12月20日付、2012年6月9日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大蔵満彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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