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大西 秀明(おおにし しゅうめい〔キネ旬, p.83.〕、1923年5月3日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である〔〔''大西秀明''・''大西三郎''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年4月1日閲覧。〕〔''大西秀明''・''大西孝典''・''橋本忠典''・''大西三郎''、文化庁、2015年4月1日閲覧。〕〔''大西秀明''・''大西三郎''、KINENOTE, 2015年4月1日閲覧。〕〔''大西秀明''・''大西孝典''・''橋本忠典''・''大西三郎''、allcinema, 2015年4月1日閲覧。〕〔''大西秀明''・''大西孝典''・''橋本忠典''・''大西三郎''、日本映画データベース、2015年4月1日閲覧。〕〔''大西秀明''・''大西三郎''、日本映画製作者連盟、2015年4月1日閲覧。〕〔''大西秀明''、デジタル・ミーム、2015年4月1日閲覧。〕。当初、本名の大西 三郎(おおにし さぶろう)で俳優として活動、戦後、上記の筆名で助監督から監督へ昇進、のちに大西 孝典(おおにし こうてん)、橋本 忠典(はしもと ちゅうてん)とも名乗る〔〔〔〔〔〔〔〔。 == 人物・来歴 == === 片岡千恵蔵の内弟子 === 1923年(大正12年)5月3日、京都府南桑田郡亀岡町(現在の同府亀岡市)に生まれる〔。 1938年(昭和13年)3月、旧制・亀岡尋常高等小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)を卒業、その3年後の1941年(昭和16年)、京都・太秦の日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社、俳優課に配属される〔。「持ち前の明るい人柄」を評価され、前年に自らのプロダクションを解散して日活に入社して〔、2015年4月1日閲覧。〕当時同社の看板スターだった片岡千恵蔵の内弟子になる〔。やがて第二次世界大戦に突入し、1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合により日活の製作部門は他の2社と統合して大日本映画製作(のちの大映)を設立するが〔大映 、コトバンク、2015年4月1日閲覧。〕、大西は新会社へ継続入社している〔〔〔〔〔〔〔。記録に残るもっとも古い出演作は、大戦末期の1945年(昭和20年)4月22日に公開された市川右太衛門の主演作『紅顏鼓笛隊』(監督木村恵吾、1953年『暁の鼓笛隊』と改題)、あるいは同年7月12日に公開された片岡千恵蔵の主演作『東海水滸伝』(監督伊藤大輔・稲垣浩、1952年『東海二十八人衆』と改題)であり、俳優時代の大西は本名の三郎を名乗っていた〔〔〔〔〔〔〔。 終戦後も引き続き、大映京都撮影所俳優課に籍を置き、1946年(昭和21年)8月15日に公開された片岡の主演作『手袋を脱がす男』(監督森一生)等に出演するほか〔〔〔〔〔〔、同年12月31日に公開された片岡の主演作『七つの顔』(監督松田定次)に始まる「七つの顔シリーズ」のアヴァンタイトルを大西が考案、これが採用されている〔。この時期、『歩く人生』、『オレは日本の国に貸しがある』等の脚本も執筆した〔。1948年(昭和23年)10月の同社社長・永田雅一の舌禍により、同年12月28日に公開された『三十三の足跡』(監督松田定次)を最後に片岡が同社を退社〔〔浜野, p.254.〕、翌1949年(昭和24年)には東横映画(現在の東映)に移籍したが、大西もこれに同行する〔〔〔〔〔〔〔〔。大西は、片岡が主演した『獄門島』、続篇の『獄門島 解明篇』に「了沢」の役を得、同2作はそれぞれ同年11月20日、12月5日に公開された〔〔〔〔〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大西秀明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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