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大西 圭斎(おおにし けいさい、安永2年(1773年) - 文政12年6月11日(1829年7月11日))は江戸時代後期の南画家。 名は允、字を叔明、もしくは名は弘、字を毅卿〔『近世画史』〕。号は圭斎・幽渓・小痴道人・一簑烟客・再生翁など。通称を又一。江戸の生まれ。 == 略歴 == 大西家は代々豊前中津藩の家臣であり、圭斎も江戸詰家臣として江戸藩邸に住み、藩主奥平昌高に仕えた。 画ははじめ沈南蘋の風を好んで宋紫石・宋紫山親子に師事し、その孫の宋紫岡にも学んだという。その後、谷文晁の写山楼に入門。明代の画家・林良〔『慊堂日録』〕や、清の蒋廷錫にも学んだという〔『竹田荘師友画録』〕。しばしば南蘋派の絵師に分類されるが、実際の作品を見ると淡彩の花鳥画を得意としていた。圭斎が中津藩の御用絵師で会ったかは定かではないが、藩命で度々中津にも赴き、その地に多くの作品を遺している。 晩年になって江戸木挽町に住む。豪放磊落で酒を好んだと交流の会った儒者松崎慊堂が伝えている〔。詩文も巧みで雲室上人の小不朽吟社に参加している〔菊池五山『五山堂詩話』〕。画人の荒木寛快とも交友が知られる。 弟子に岡本秋暉・矢島群芳がいる。享年58。 子の大西仙洲も画をよくし、初め江戸詰めだったが、維新後は中津市で暮らした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大西圭斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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