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大西 康雄(おおにし やすお、1947年10月22日〔''六代目山口組完全データBOOK 2008年版'' : 『2008年 引退した男たちの肖像>【大西組】大西康雄』 (p.152–153) 2009年2月 メディアックス ISBN 978-4-86201-358-3〕 - )は、日本のヤクザ。指定暴力団・六代目山口組若中、大西組組長、元後藤組副組長、元竹中組若頭。兵庫県加西市出身。 ==来歴== ===昭和期=== 昭和22年(1947年)、兵庫県加西市に出生。高校中退後に18歳で三代目山口組系竹中組幹部の若衆となり、竹中組本部で4年半の部屋住み修業を行った。昭和45年(1970年)、自身の親分が竹中組から破門されたのを機に、竹中組・竹中正久組長から盃をもらい、竹中組若中となった。昭和47年(1972年)、竹中組若頭補佐に就任。 昭和55年(1980年)3月上旬と中旬、竹中は、矢嶋長次、長谷一雄、稲川会・林喜一郎副会長、忠政会・大森忠明会長、松正会・山本真喜夫会長らを招待して、大西康雄宅などで、2回に渡ってサイ本引き賭博を開いた。両日で賭け金3、4億円が動いた。 昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。 昭和60年(1985年1月26日午後9時過ぎ、竹中、山口組若頭・中山勝正、山口組南組・南力組長は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、二代目山広組若頭・後藤栄治に指揮された二代目山広組組員・田辺豊記、同組組員・長尾直美、同組組員・立花和夫に銃撃された。南はほぼ即死、中山も4時間後に死亡した。竹中は銃弾3発を受けたが、自力で自分の車に乗り込み、運転手は南組事務所に向かいながら、無線で救急車の手配を急がせた。南組事務所から、大阪警察病院に搬送された。 同年1月27日午後11時25分、竹中が死去。同年12月、竹中組(組長・竹中武)の若頭に就任した。 昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大西康雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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