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大谷 吉治(おおたに よしはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。大谷吉継の子(一説には弟)〔奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)61頁〕。名前については吉胤、吉勝の説がある。官位は大学助。子に大谷吉之、孫に大谷吉頼。真田信繁は義理の兄である。 == 生涯 == 慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が大谷家を訪問した時は、病状の悪化した吉継の代わりに接待役を務めた。翌慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると形見分けとして「鐘切りの刀」を受け取る〔。慶長4年(1599年)には家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している〔石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』772号、2012年)〕。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは吉継と共に西軍につき、北陸で前田勢を足止めしたのちに、関ヶ原に移動し奮戦するが、小早川秀秋軍が西軍を裏切り大谷隊を攻撃。部隊は壊滅し父の吉継は自害するが、吉治は敦賀に落ち延びる。その後は各地を流浪した。 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると大坂城に入城。吉治は豊臣方から100名の兵士を担当する隊長に任命されたという(『土屋知貞私記』〔奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)66頁〕)。慶長20年(1615年)5月、道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いの決戦では真田信繁隊の前線で戦うが越前福井藩の松平忠直軍との戦闘中、忠直家老の本多富正の配下により討たれた。 子の吉之は戦後帰農したとされる。なお、異説によると長男は大谷吉刻といい、元和6年(1620年)に桓武平氏に連なる大谷氏の家系を記したとされ、子孫家に立花家からの文書、吉継の甥僧祐玄が持ち去った吉継の首を包んだ片袖の唐草あやし紋の布があるなどと伝わるが、大友家には桓武平氏大谷姓を名乗る家臣は発見されていないことなどから、信憑性は低いとされている。 のち吉治を討取った福井藩は、吉治の甥の大谷重政を召し抱えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大谷吉治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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