|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 兵 : [へい] 【名詞】 1. (1) (common) soldier 2. rank and file 3. (2) army 4. troops 5. (3) warfare 6. strategy
大谷嘉兵衛(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元年12月22日) - 1933年(昭和8年)2月3日)は、明治、大正、昭和の実業家。製茶貿易業に携わり、「茶聖」と呼ばれた。第2代横浜商業会議所(現在の横浜商工会議所)会頭。貴族院議員。正五位、勲三等旭日中綬章。 ==略歴== 伊勢国飯高郡谷野村(現在の三重県松阪市飯高町宮本)に、父の吉兵衛、母つなの4男1女の末子として生まれた。幼名は藤吉。 1862年(文久2年)に19歳で横浜の故郷の隣村の出身、茶商 小倉籐兵衛の横浜北仲通りの伊勢屋に奉公、製茶貿易に就く。 1865年(慶応元年)伊勢屋の養子となるが、1867年(慶応3年)の春には伊勢屋を出て、8月からスミス・ベーカー商会の製茶買入方として働き始め、海外取引責任者となる。 1868年(明治元年)名を嘉兵衛と改め、横浜の海岸通りに製茶売り込み業を開業。屋号は巴屋。このときはまだスミス・ベーカー商会の支配人格でもあった。大阪に出かけ9月から12月の三か月で京のお茶を70万斤(約420トン)を26万8000両で買い付け、輸出し巨利を得た。 このころ輸出増加による受給逼迫のため、粗悪な茶が増加したために、1872年(明治5年)に製茶改良会社を設立。1878年(明治11年)には茶業協同組合を設立して茶の品質向上を図った。 1879年(明治12年)、横浜で第1回製茶共進会が開かれ審査長となる。1883年には神戸で第2回共進会が開催されている。 1884年(明治17年)に農商務省と協力して全国茶業組合を組織し、その全国組合である中央茶業本部を設立。このように輸出製茶の品質向上に努め、名誉幹事となり製茶貿易界で大きな発言力を得た。 1887年(明治20年)に銀製黄綬章(私財献納の功績)を受章、1889年(明治22年)横浜市会議員に当選、翌1890年(明治23年)に市会議長を務める。1891年(明治24年)に全国茶業組合中央会議所の議長となる。同年の製茶輸出高は5323万ポンドの新記録となる。1892年(明治25年)横浜貿易商組合総理。 1894年(明治27年)製茶の貿易会社である日本製茶株式会社を設立。外人商館を通さない直接の輸出取引を行うようになる。 1897年(明治30年)、明治政府からの補助もうけ、アメリカ、カナダ、ロシアのハバロフスク、ウラジオストック、パリ等に日本製茶株式会社の出張所を開設。同年に横浜商業会議所(現在の横浜商工会議所)会頭に就任。この年、勲五等瑞宝章(日清戦争の功による)。 1899年(明治32年)10月に開催されたフィラデルフィア万国商業大会に日本代表として臨み、11月8日に当時のウィリアム・マッキンリーアメリカ合衆国大統領と面会を果たし、前1898年(明治31年)から実施されていた日本茶への高い関税についての撤廃を陳情し〔、輸出茶の原価に相当するほどの日本茶への高い関税は1903年(明治36年)に撤廃された。〕、また太平洋の海底に電話線を引くことを提案した。その後、ヨーロッパを視察し、1900年(明治33年)2月に帰国、このときの体験を『欧米漫遊日誌』として残している。1906年(明治39年)10月、ベルギーよりレオポルドI世勲章(第3等コンマンドール)を受ける(リエージュ博覧会日本出品協会長の功による)。1907年(明治40年)9月、勲三等瑞宝章(日露戦争の功による)。 1907年(明治40年)10月4日に貴族院多額納税者議員に選ばれ〔『官報』第7282号、明治40年10月5日。〕、1909年(明治42年)11月16日まで務める〔『官報』第7921号、明治42年11月17日。〕。 1909年、茶業組合中央会議所会頭に就任、1928年(昭和3年)まで務める。1911年(明治44年)9月、従五位に叙される。また、1915年(大正4年)11月には、正五位に叙される。 1917年(大正6年)日本紅茶株式会社を設立。1918年(大正7年)に貴族院多額納税者議員に再選。1923年(大正12年)、紺綬章(公益のため私財寄附の功績)を受ける。 日本貿易協会の会頭、第七十四国立銀行取締役も務めた。設立参与としては、台湾鉄道、台湾銀行、南満州鉄道、韓国銀行、常磐生命、東洋拓殖、三共、川俣電気会社などがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大谷嘉兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|