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大谷 鬼若(おおたに きじゃく、1878年9月30日 - 1941年7月28日)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.104.〕〔揚幕社, p.15.〕〔報知, p.197.〕〔天野, p.29-32.〕〔''大谷鬼若''、''jlogos.com'', エア、2013年3月8日閲覧。〕〔''大谷鬼若''、日本映画データベース、2013年3月8日閲覧。〕〔''大谷鬼若''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月8日閲覧。〕〔''大谷鬼若''、日活データベース、2013年3月8日閲覧。〕〔''大谷鬼若''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月8日閲覧。〕。本名今西 友次郎(いまにし ともじろう)〔〔〔〔、俳号は大江山(おおえやま)〔。サイレント映画の時代に、尾上松之助の主演映画の名悪役として知られた〔。 == 人物・来歴 == 1878年(明治11年)9月30日、京都府京都市に生まれる〔〔〔。父は西陣の企業家・澤田與七であったが、母の私生児として生まれ、祖父母に育てられる〔。 旧制小学校の子ども時代から芝居が好きで、6歳下の弟とともに親に懇願したが聞き入れてもらえず、数え年16歳になる1893年(明治26年)8月、当時岐阜県安八郡大垣町(現在の同県大垣市)に住んでいた大谷友松のもとへ弟とともに家出をして入門、弟ともどもその門人となり、舞台に立った〔〔〔〔。弟は中村仙太郎を名乗ったが、その後、数え年28歳で病没している〔。その後、師のもとを離れて、「大谷 鬼若」を名乗り四国・九州を巡業し、数え年27歳になる1904年(明治37年)、京都の千本座に出演し、同座を経営する牧野省三と知り合う〔〔〔〔。明治末年には横田商会に入社、おもに尾上松之助が主演するサイレント映画に助演した〔〔〔〔。1912年(大正元年)9月10日、横田商会は福宝堂、吉澤商店、M・パテー商会との合併で日活になり、横田商会の「法華堂撮影所」は「日活関西撮影所」(通称・日活京都撮影所)と改称し、大谷は継続的に同撮影所に所属した〔〔〔〔。同年、長女で一人娘の富見子が誕生する〔。大谷は、松之助映画に欠かせない悪役俳優となり、娘は「悪役の娘」であることを男子にからかわれた経験をのちに回想している〔。 1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)によれば、当時、大谷は京都市上京区五辻通七本松西入ル西柳町5番地に住み、身長は5尺3寸(約160.6センチメートル)、体重15貫匁(約56.3キログラム)、妻・長女あり、常用煙草は「ゴールデンバット」を1日5箱というヘヴィスモーカーであった〔〔。幡随院長兵衛を崇拝し、自選の代表作は『仮名手本忠臣蔵』(監督牧野省三)における斧定九郎役であるという〔。1926年(大正15年)9月11日に松之助が死去し〔、2013年3月8日閲覧。〕、大谷も同年を最後に日活を去り、牧野省三の経営するマキノ・プロダクションに移籍した〔〔〔〔。1929年(昭和4年)7月25日に牧野も死去し〔、2013年3月8日閲覧。〕、満51歳となっなる同年11月22日に公開された『大逆倫』(監督勝見正義)を最後に、同社を退社、映画界からも引退した〔〔〔。 晩年も五辻通七本松西入ルに暮らし、骨董商を営み俳句を嗜んだ〔。1941年(昭和16年)7月28日、脳溢血のため自宅で死去した〔〔。満62歳没。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば、同書が発行された1979年(昭和64年)の時点では、大谷の長女・富見子は同地に健在であったという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大谷鬼若」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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