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若三杉 彰晃(わかみすぎ あきてる、1937年(昭和12年)9月24日-1983年(昭和58年)11月2日)は、1950年代後半から1960年代にかけて活躍した香川県丸亀市土居町出身の大相撲力士。最高位は東関脇(1963年(昭和38年)5月場所、同年7月場所など)。花籠部屋に所属していた。本名は杉山 昇(すぎやま のぼる)。現役時代の体格は188cm、133kg。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。 == 来歴・人物 == 香川県立丸亀高校では柔道部に所属していたが、花籠親方(元前頭3・大ノ海)に勧誘され、高校を2年で中退して花籠部屋へ入門。1955年(昭和30年)3月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同じ「杉山」。初土俵の場所では番付外と新序で好成績を残したため、翌場所では、序ノ口を飛び越していきなり序二段に付いた。 その後「國風」の四股名を付けたが、縁起が悪いと言われて1場所で元の「杉山」に戻し、先代花籠の現役名・三杉磯を襲名した際には大正時代の名力士の名など幕下にはまだ早いと言われてこれまた1場所で元に戻した。十両に昇進した1958年(昭和33年)5月場所より「若三杉」に改名したが、この四股名は、「若乃花」と「三杦磯(=三杉磯)」に因んでいる。 十両では3場所続けて11勝4敗という好成績を挙げ、同年11月場所で新入幕。そして、同場所では10勝5敗と二桁勝利を挙げた。 西前頭4枚目に在った1960年(昭和35年)5月場所では、初日若羽黒(大関)に負けたが2日目以降すべて勝って(横綱・栃錦からの不戦勝を含む)14勝1敗と入幕後自己最高の成績を収め、幕内最高優勝を遂げた。 以降は三役から幕内上位で活躍し、下位に下がると好成績を残して上位に戻って来ていた。 その後、1962年(昭和37年)9月場所より「大豪 昇」、同年11月場所より「大豪久照」と改名。1963年(昭和38年)3月場所では小結で9勝6敗と勝ち越し、その後関脇で5場所連続勝ち越して、1964年(昭和39年)3月場所では同地位で10勝5敗と二桁勝利を挙げ、大関昇進近しを思わせた。場所後、二子山親方(元横綱・初代若乃花)の実妹・花田ちえ子と結婚。しかし結婚疲れからか5月場所では4勝11敗と大敗し、大関獲りの夢は消えた。 以後も上位に定着を続け、栃ノ海戦や佐田の山戦では善戦した。しかし、1966年(昭和41年)7月場所で途中休場してからは番付が降下し、1967年(昭和42年)5月場所では「番付削減」により十両へ落とされてしまった。 そしてこの5月場所には出場せず、同場所を以て、29歳で引退した。 引退後は年寄・荒磯を襲名し、二子山部屋付きの親方となって勝負審判も務めた。 1983年(昭和58年)11月2日、肝硬変のため東京都内の病院で逝去。享年46。 汗をかきやすい体質で稽古量は多く見えていたが実際の稽古量は少なかったらしく、しかも脇が非常に甘いため大成し切れなかった。「若三杉」を名乗っていた頃の仇名“万歳三杉”にも、それが表れている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若三杉彰晃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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