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大賀 弥四郎(おおが やしろう、生年未詳 - 天正2年(1574年)?)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。なお、弥四郎の姓は正しくは大岡氏であったとする説もある〔柴裕之「長篠合戦再考」『織豊期研究』12号、2010/柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年〕。 == 生涯 == 『徳川実記』によると、初めは徳川家康の中間だったが、算術に長じていたため会計租税の職に試用された後、三河国奥郡20余郷の代官に抜擢された。普段は家康の居する浜松にありながら、ときどき岡崎にいる嫡男松平信康の用も務めるようになり、両者の信任を得て権勢並びなき者となり増長した。しかし、家康の家臣近藤某が領地を加増されたとき、大賀弥四郎が自分のとりなしによるものだと言ったため、近藤は大賀に追従してまで加増されたくはないと返上を申し出でた。このことがきっかけで、家康が大賀の日頃の悪行を耳にすることとなり、大賀は捕らわれて家財を没収された。 すると、大賀が小谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田八蔵と共謀し、岡崎城を乗っ取って武田勝頼を手引きすることを書いた、武田方への書簡が発見された。山田八蔵も変心して信康に訴え出たため、大賀は馬に乗せられて浜松城下を引き回され、妻子五人がはりつけにされたのを見せられた後、岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ、七日後に死亡した。なお、小谷は甲州へ逃れ、倉知は討ち取られ、山田は千石を加増されたという。 『三河物語』では、上記のエピソードの他に、大賀の讒言によって家康と信康の間が険悪になったとも記されている。 なお、近年ではこの事件を天正3年(1575年)の事件とし、同年5月21日に発生した長篠の戦いの原因となった武田勝頼の三河侵攻は弥四郎との通謀の上で行われたとする説もある〔。 山岡荘八の『徳川家康』などのフィクションでは、築山殿とも共謀して武田勝頼に内通していたように描かれているものもあるが、史料の裏づけはない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大賀弥四郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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