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大道 あや(だいどう あや、1909年4月11日 - 2010年9月14日)は広島県出身の画家、絵本作家である。本名は大道アヤコ。 60歳から絵を描きはじめ草花や動物など生命に溢れる数百点の作品を残した。母は70歳を過ぎて絵を描き始め「おばあちゃん画家」として有名になった丸木スマ(1875年 - 1956年)〔NHK日曜美術館 「母と娘 咲き誇るいのち 丸木スマ・大道あや」 閲覧2011-7-29〕、「原爆の図」で知られる画家の丸木位里は兄、丸木俊は義姉(兄嫁)である。 ==略歴== 1909年、広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)で農業および太田川で船宿を営む丸木金助・スマの子として生まれた〔Spysee 「大道あや」 閲覧2011-7-29〕。 安田高等女学校(現・安田女子中学校・高等学校)を卒業。結婚して広島市内で美容師となる。36歳の時、爆心地から2.5キロの地点で被爆した。爆心地近くにいた父金助は被爆し一年後に他界した。母のスマは爆心地から遠く離れた三滝の自宅に居たため無事であった〔針生一郎 「広島の原爆美術史」 『百兵衛』10号(2009年7月)〕。 戦後は家業の花火工場で働く。しかしその間に母のスマが1956年に「原爆の図」の巡回展で海外に出ていた丸木夫妻の留守宅で、「同巡回展」開催運動に関わっていた青年に殺害された。1967年には長男が家業の花火工場の事故で負傷し、翌年には夫を爆発事故で亡くした〔朝日新聞「被爆画家、大道あやさん死去」2011年2月21日 閲覧2011-7-29〕。 悲しみと失意に沈むあやに親友が絵を描くことを勧め、1969年、60歳にして初めて絵を描きはじめた。1970年には亡き夫を思い描いた「しかけ花火」が女流画家協会展に入選〔。71年には兄の丸木位里夫妻の住む埼玉県東松山市に移る。画家としての大半を埼玉でおくることになる。 その後日本美術院展覧会に入選を重ね、院展院友、女流画家協会会員になる 〔Hatena 「大道あや」 閲覧2011-7-29〕。 1975年からは絵本も描き始め、1976年には「こえどまつり」(福音館)でブラティスラヴァ世界絵本原画展・優良賞を受賞した〔渋谷文化プロジェクト 「生誕100年記念 大道あや展」 閲覧2011-7-29〕。 1979年に埼玉県越生町に、自身と母・丸木スマの絵を展示するオッペ美術館を開設した。その近くの「けとばし山」と名付けた小さな山のふもとに住み、畑仕事の傍ら日本画、絵本を描き続けた〔。「けとばし山」とは蹴飛ばしたらできそうなくらい小さな山という意味で、出生地の広島飯室の急峻な山々とは大きく異なっている。 被爆画家と呼ばれることもあるが、彼女の絵は明るく草花や動物など生命に満ちた作品が殆どである。唯一の例外が2000年彼女が91歳の時に描いた最初でそして最後となる9枚の原爆の絵であった。この作品の後二度と絵を描くことはなかった。生前あやは原爆投下数日後に広島に戻った兄夫婦の描いた「原爆の図」に対し、「原爆はあんなもんじゃない」、「兄さんたちは見てないから描けるんだ」と批判的だった〔。 丸木美術館の岡村幸宣(ゆきのり)学芸員は「肉親のあやさんが、『原爆の図』に最も本質的な批判をしている点が興味深い。ある意味、『原爆の図』が神聖化されることからも救った」と語っていた〔。 あやは自分の絵について「犬やら猫やらがいて、いっぱい花が咲いてる絵を見たら、みんな『平和がええのう』と思うじゃろ」と話していた〔朝日・広島「全力で、絵も人生も 画家の大道あやさん死去」 閲覧2011-7-29〕。兄夫婦が原爆を描いて反核を訴えたのに対しあやは平和を描くことで原爆を否定した。 2003年には広島にもどり、息子夫婦、孫たちと暮らしていた。2010年9月14日、心不全で亡くなる。遺骨は、広島の街を望む山の墓所に、母・スマ、兄・位里、俊らと共に埋葬されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大道あや」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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