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大里区(だいりーく/おおさとく〔「州、廳ノ位置、管轄區域及郡市ノ名稱、位置、管轄區域」大正九年八月十日、臺灣總督府令第四十七號〕)は、台湾台中市の市轄区。 ==地理== ==歴史== 大里の旧名は「大里杙」である。漢人入植以前は洪雅平埔族の活動地域であった。雍正乾隆年間に、原住民は清朝に帰順し、その後大量の移民が大陸より流入、大肚渓、大里渓沿いに上流方向に開発が進んだ。大里は交通の便がよかったことから早い時期に開発が進み、台中盆地で最も経済的繁栄を見た地域である。 大里杙の開発初期は原住民による入植者に対する攻撃が相次ぎ、入植者は「塗城」を設置、土塁を以って先住民からの攻撃に備えたことから「番仔寮」、「塗城」などの地名が発生している。当初の入植者は褔建漳州出身者の林姓が最も多い。清に対し反乱を起こした林爽文もその仲の一人であり、郷民の不満の高まりを見て「天地会」を組織、結局は失敗に終わったが反清活動を展開している。その事件後林爽文一家は霧峰に移り、今日著名な霧峰林家花園となったが、その源流は大里に発している。 「大里」の地名の由来は、元来原住民語の音訳である。「杙」は「筏」を表している。大里渓は急流であり、彰化県鹿港鎮及び南投県北投庄郷からは交通は全て筏による水運に依拠していたことから命名された。当時漢人は小船を利用しての交易を行っており、次第に川辺に襲来区が形成されるようになり、これが「渡船頭」と称されるようになった。現在の「旧街仔」に比定されている。 「一府、二鹿、三艋舺、四竹塹、五諸羅、六大里杙」との言葉が示す通り、台湾を代表する「大里杙」であるが、日本統治時代になると「杙」の文字が脱落し「大里」と称されるようになり、現在に至っている。 2010年12月25日の台中県市合併、直轄市昇格に伴い大里区と改称され現在に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大里区」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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