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大野 倫(おおの りん、1973年4月3日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手(外野手)。現在は九州共立大学沖縄事務所長。 == 経歴 == === アマチュア時代 === 沖縄水産高校では、2年生の夏に外野手として第72回高校野球選手権大会に出場。決勝戦では南竜次を擁する天理高校に0-1と惜敗したものの、沖縄県勢として初の準優勝を果たす。このため県民の期待は高まり、2年秋からエースで四番となると大きなプレッシャーを感じたという〔毎日新聞、2010年3月5日付夕刊、九州地方面〕。3年の春、ダブルヘッダーの練習試合で2試合18イニングを完投した2日後、ブルペンでの投球練習中に右ひじが音を立て激痛が走った。しかし、周囲にはこのことを隠し、通院すれば試合に出場できなくなるため治療せずに練習を続けた〔読売新聞、2010年12月15日付夕刊、P.3〕。なお、エースの座を争った同級生は夏の県大会が始まる直前に高熱をおして練習試合に登板したが、試合後に急性腎盂炎のため入院している〔AERA、1994年7月2日号〕。 県大会では医者の警告を受けながら痛み止めの注射を打って登板し〔、第73回高校野球選手権大会への出場を決めた。県大会の優勝後は喜びよりも安堵感の方が強かったという〔。本大会では2回戦の対明徳義塾戦ですでに本来の制球力がない状態だったが〔読売新聞、1991年8月17日付朝刊、P.21〕、有力な控え投手がいないため決勝まで6試合全てで完投し、3回戦以降は4連投となった。大会中も泊まりがけで佐賀県の整体師を訪ねるほど満身創痍だったが、「お前と心中するぞ」という栽弘義監督の信頼に応えるために投げ続けた〔(耕論)熱すぎないか高校野球 大野倫さん、軍司貞則さん、コンバットRECさん 朝日新聞 2013年6月25日〕。「沖縄県勢初の夏制覇」の期待がかかる中で登板した大阪桐蔭との決勝戦では萩原誠に本塁打を浴びるなど〔朝日新聞、1995年7月14日付朝刊、P.27〕、13失点で敗れた。毎日、栽監督のマッサージを受け〔、6試合で36失点しながら773球を投げ抜いたが、この決勝戦が大野の最後のマウンドとなった〔済美高校「エースの5連投」に異議 投手生命絶たれる危険がある J-Cast 2013年4月3日〕。大会後、右ひじの疲労骨折と診断され、手術を受けたところ剥離骨折した親指の爪ほどの骨片が複数摘出された〔。 高校卒業後は九州共立大学に進学。故障のため投手は続けられなかったが、高校通算18本塁打の長打力を活かして外野手に転向した〔毎日新聞、1993年6月6日付朝刊、P.16〕。また、ひじは曲がったままだったものの、在学中に遠投で100mは投げられるまでに回復した〔。1年春から福岡六大学リーグにDHとして出場し、秋は外野手として打率.450、4本塁打、10打点の成績を残している〔毎日新聞、1992年12月16日付朝刊、P.17〕。翌2月には最年少の日本代表メンバーとしてアジア選手権に参加し、3年後のアトランタ五輪代表候補としても期待されていた〔朝日新聞、1993年2月15日付夕刊、P.2〕。 2年春のリーグ戦では四番を務めて〔読売新聞、1995年4月8日付夕刊、九州地方面〕4割を超える打率でリーグ優勝に貢献し〔朝日新聞、1993年6月3日付夕刊、P.2〕、全日本選手権では朝日大学との1回戦で2ランホームランを放っている〔。同年の日米大学野球〔第22回 日米大学野球選手権大会 日本代表 〕とユニバーシアードでは日本代表に選ばれた〔。4年生になると主将を任され〔、同年の日米大学野球では代表に復帰している〔第24回 日米大学野球選手権大会 日本代表 〕。福岡六大学リーグ新記録の通算18本塁打を放ち〔毎日新聞、1996年5月15日付朝刊、P.23〕、1995年のドラフト会議で巨人から5位で指名され入団。契約金と年俸はそれぞれ7,000万円、960万円(いずれも推定)だった〔読売新聞、1995年12月11日付夕刊、P.16〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大野倫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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