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大野屋惣八(おおのやそうはち)は、江戸時代後期から明治時代にかけて名古屋長島町(現在の錦二丁目)に存在した貸本屋・出版業、またその主人。通称、大惣もしくは大総(だいそう)。 == 概要 == 貸本屋としての創業は1765年(明和2年)とする説と、1767年(明和4年)とするものがある。屋号の大野屋は創業者が知多郡大野村(現常滑市)出身であることに由来する。最初から貸本屋専業だったわけではなく、1830年(天保元年)頃までは酒屋、1754年(宝暦4年)からは薬屋を併せた。薬屋は1879年(明治12年)頃まで営業していた。酒屋としての二代目にあたる江口新六が趣味で蒐集したものを、惣八が貸本屋として整えた。初代惣八は元々個人的に蒐集していた書籍を人に見せているだけだったが、2代目が料金を定めたという。見料を定めたのは1845年(弘化2年)のことであり、それまでは無料で貸し出していたことになる。3代目に全盛を迎えたものの、4代目で終焉を迎えた。初代以来の蔵書は一切売却しないという方針が堅持され、廃業時には2万冊の蔵書を誇ったという。蔵書は小説だけでなく、漢籍から娯楽書の類まで幅広く取りそろえ、利用客も武士から町人まで各階層に及んだという。また、曲亭馬琴も訪れており、「胡月堂」の扁額を揮毫したという。明治に至って坪内逍遙や水谷不倒なども利用した。特に坪内は自ら「大惣は私の芸術心作用の唯一の本地、すなわち〈心の故郷〉であった」(「少年期に観た歌舞伎の追憶」)とまで述べている。廃業時期ははっきりしない〔『日本歴史地名大系』154頁および『中区誌』390頁は1899年(明治32年)、『尾張出版文化史』62頁は1912年(明治45年)、『坪内逍遙事典』221頁は明治中期から営業を縮小し、大正初年に廃業したとする。〕。膨大な蔵書は帝国図書館(現国立国会図書館、約3500部)・東京帝国大学・京都帝国大学(現京都大学、約3700部)・東京高等師範学校(現筑波大学、約500部)・東京専門学校(現早稲田大学)などに吉川弘文館を仲介して分譲され、震災等により一部が失われたものの現在まで伝わっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大野屋惣八」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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