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大野 知房(おおの ともふさ、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩浅野家の末席家老650石。『忠臣蔵』における不忠臣の代表格。一方で優秀な経済官僚であったといわれる。通称は九郎兵衛(くろべえ)。 == 略歴 == 大野は藩財政の運営と塩田開発に手腕を発揮して家老に取り立てられた。赤穂事件時にはかなりの高齢だったと見られる。赤穂藩番頭の伊藤五右衛門(450石)は弟といわれる(一説に甥)。 元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩の吉良義央への江戸城での刃傷により、浅野長矩は切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。筆頭家老大石良雄とともに大野は赤穂城での評定を主宰。大野は開城恭順を主張し、籠城を主張する大石派の藩士と対立した。また、分配金の配分では大石は微禄の者に手厚く配分すべきとしたのに対して、大野は石高に応じて配分すべきと主張している。結局、大石の意見どおりに配分され、大野は藩内で孤立を深めた。 特に大野は、足軽頭原元辰と札座奉行岡島常樹の兄弟と対立した。大野の原兄弟への憎悪はかなり深かったようで、三次藩士・久保田源大夫宛ての書状のなかで原を「無理非道の者」などと罵倒している。また大野は、岡島の部下の小役人達が改易の混乱に乗じて金銀を奪って逃亡する事件をとらえて、岡島も一味に違いないと吹聴したといわれる。これに激怒した岡島は、4月12日に大野邸に乗り込んだが、大野は会おうとはせず、やむをえず岡島は大野の弟の伊藤五右衛門邸へ行き、伝言を頼んで帰った。しかしその日の夜、大野は子の大野群右衛門とともに家財を置いたまま船で逐電する。よほど慌てていたと見え、幼い孫娘を屋敷に置いたままにしたうえ、女駕籠にて逃げたことが堀部武庸筆記に記されている。 その後の大野については諸説ある。 元禄16年(1703年)4月に伊藤東涯が並河天民へおくった書簡に九郎兵衛と伊藤五右衛門の事が書かれている。それによると「伴閑精」と称して、京都の仁和寺の辺りに住んでいたという。元禄16年(1703年)4月6日に衰死して東山の黒谷に葬られたことも書かれている。これは伊藤五右衛門が埋葬してくれた日夏長兵衛へ対して送った4月17日付けの礼状にも記述があるという。 大石らが討入りに失敗したときのことを考え、吉良が実子で出羽米沢藩の第4代藩主上杉綱憲の所領へ落ち延びた際に備え、山形県の板谷峠にて木こりに扮して第二陣として潜伏していた伝承があり、大石らの討ち入りが成功したのを聞いて歓喜し、その場で自害したといわれている。なお、板谷峠には大野のものと伝わる石碑があり、建立した佐藤という米沢の旅籠屋は、浅野家と縁があったといわれている。 群馬県安中市の松岸寺にある林遊謙なる者の墓があり、これが大野であるという伝承があり、この墓碑には「慈望遊議居士 寛延四年九月二十四日」と書かれている。これに従えば、大野は赤穂城開城時から50年以上も生きたことになり、疑わしい。 山梨県甲府市の能成寺にも大野が隠れ住んでいたという伝承があり、墓石には「幽玄院真岩猶夢居士」と刻まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大野知房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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