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大野裕司 : ミニ英和和英辞書
大野裕司[おおの ゆたか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大野 : [おおの]
 【名詞】 1. large field 
: [の]
 【名詞】 1. field 

大野裕司 ( リダイレクト:堀越善明 ) : ウィキペディア日本語版
堀越善明[ほりこし よしあき]

堀越 善明(ほりこし よしあき、1935年7月27日 - )は、日本の映画監督、演劇の演出家である〔キネ旬, p.358.〕〔''堀越善明''、''jlogos.com'', エア、2014年6月20日閲覧。〕〔''堀越善明''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年6月20日閲覧。〕〔''堀越善明''・''大野裕司''・''橘明''、日本映画情報システム、文化庁、2014年6月20日閲覧。〕〔''大野裕司''・''斎藤功''・''橘明''・''堀越善明''・''大野裕司''日本映画データベース、2014年6月20日閲覧。〕。本名大野 裕司(おおの ゆうじ)でも活動し〔〔〔〔、別名斎藤 功(さいとう いさお)、橘 明(たちばな あきら)でも作品を発表している〔〔年鑑, p.138-154.〕。
== 人物・来歴 ==
1935年(昭和10年)7月27日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔。
第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)4月、新制高校東京都立駒場高等学校に進学し、1954年(昭和29年)3月の卒業後に小幡欽治劇団炎座に入団、演出部に所属する〔。当時の同劇団には久保田猛清水元石崎一正〔、2014年6月20日閲覧。〕、中庸助〔、2014年6月20日閲覧。〕、草村礼子〔、2014年6月20日閲覧。〕らがいた。1959年(昭和34年)、テレビ映画の製作会社で助監督の職を得る〔。劇団が解散したのは、1960年(昭和35年)3月20日の『銭のなる木』(一ツ橋講堂)公演の後であった〔劇団炎座 早稲田大学演劇博物館、2014年6月20日閲覧。〕〔劇団炎座の歩んだ道 1953-1960 国立国会図書館、2014年6月20日閲覧。〕。1962年(昭和32年)にはフリーランスの助監督となり〔、翌1963年(昭和38年)秋、三田浩の東京企画で『地下室のうめき』(監督増田健太郎)のチーフ助監督を本名の大野 裕司で務める〔。このとき同作の助監督見習いを務めた武重邦夫の回想によれば、大野(堀越)は、同作よりも以前の時点で共同映画にいたこともある、とのことである〔「愚行の旅」第4回 記憶の底の「地下室のうめき」 武重邦夫、シネマネストJAPAN, 2014年6月18日閲覧。〕。同時期に同じく東京企画で『夜の誘惑』 を監督し、満28歳で初監督を経験している〔〔〔。同作は、同年12月に成人映画指定を受け、翌1964年(昭和39年)4月14日に公開された〔〔。その後も中映プロダクションで『肉体の妖精』(監督小林悟、1964年)の助監督をしたり、『火遊び』(配給関東映配、1965年)を監督したり、東京企画で『女高生日記』(1965年)を斎藤 功の名で監督したりしていた〔〔〔〔。
1966年(昭和41年)3月8日、小森白東京興映中央区銀座東4丁目4番地、現在の銀座4丁目9番2号)〔年鑑, p.391.〕を設立、大野(堀越)は同年、同社に入社する〔〔〔〔。小森白の助監督を務めたのち、1967年(昭和42年)に正式に監督に昇進、『肉の爪あと』を本名で発表した後は〔本地, p.101.〕、橘 明の名で作品を発表する〔〔〔〔。『女の抜け穴』を監督、同作は1971年(昭和46年)3月31日に公開された〔〔〔。翌1972年(昭和47年)3月31日に公開された『ラブ・ストーリー』以降、堀越 善明を名乗る〔〔〔〔。1973年(昭和48年)1月に公開された『日本猟奇事件』では、小森白・山本晋也と共同で監督した〔〔〔。東京興映は、同年11月30日に公開された堀越の監督作『実録拷問性犯罪』を最後に活動を停止した〔〔。「75年以降活動していないが、機会さえあれば撮りたいという」との記述のある『日本映画監督全集』の編纂された時期は〔、確かにしばらくブランクの時期であったが〔〔、1977年(昭和52年)、大蔵映画で活動を再開した〔〔。
1979年(昭和54年)2月24日に公開された、内藤誠監督・脚本、森下愛子主演の『十代 恵子の場合』では、ふたたび「大野裕司」の名で、内藤のチーフ助監督を務めている〔〔。同作は東映セントラルフィルムが製作した作品であるが、向江寛城こと向井寛獅子プロダクションが製作協力しており、以降、獅子プロダクションが製作し、東映セントラルフィルムが配給する成人映画を「大野裕司」の名で手がけることになる〔〔。1985年(昭和60年)2月28日に公開された『赤い実験室 私を虐めて下さい』を最後に、「大野裕司」名義でも「堀越善明」名義でも、監督作は途絶えた〔〔〔。1999年(平成11年)10月23日に公開された『港のロキシー』(監督あがた森魚)のプロデューサーにクレジットされた「橘明」〔、2014年6月20日閲覧。〕が、堀越(大野)であるかどうかは不明である。
東京国立近代美術館フィルムセンターは、堀越の監督作のうち、共同監督作の『日本猟奇事件』の上映用プリントのみを所蔵している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「堀越善明」の詳細全文を読む




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