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大野 雄大(おおの ゆうだい、1988年9月26日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。 == 経歴 == === プロ入り前 === 京都府京都市伏見区出身。砂川小学校5年時にスポーツ少年団に入団し野球を始め、6年からは投手を務める。京都市立藤森中学校では軟式野球部に所属。2年時の練習試合で四球を連発して試合を壊してしまい、不甲斐なさや悔しさから野球を辞めようと考えていたが、チームメイトの励ましで立ち直りその後は必死に練習するようになった。大野はこの試合が投手としての第一歩になったと語っている。それまで外野手との兼任だったが投手に専念し、3年夏に京都市大会で優勝した。その頃から京都の軟式野球界では名の知れた存在となっていた。 大野は母子家庭だったこともあって公立の鳥羽高校への進学を考えていたが、三原新二郎が野球部監督を務める京都外大西高へ誘われて入学。2年春からベンチ入りし、チームは夏の甲子園に進出。決勝で対戦した駒大苫小牧の田中将大の投球を見て「ああいうやつがプロになるんだな」と思ったという〔。この大会では登板機会がなかったため悔しい思いをしていたが、秋からの新チームでは先発を任される機会が増え、3年春の選抜の初戦で東海大相模に敗れたものの甲子園初先発を果たした。3年夏も甲子園出場を目指したが京都大会準決勝で福知山成美に敗れた。 高校では監督から「ちゃらんぽらんな人間」と言われ続けていたため〔、「野球人としても人間としても成長できる」と勧められた佛教大学に進学。1年春からベンチ入りし、秋の近畿大学戦では145km/hを記録。この頃から速球に自信を持ったという。真ん中に投げる練習を続けたことで球速が上がったと語っている。その結果四死球も減り、3年秋の京滋リーグでは44回で四死球2。単位を落としたため2年春から半年間は佛教大のルールにより練習や試合に出場できなかった〔。秋からは先発ローテーションに定着し、1年秋から4年春まで続く16連勝の活躍で3季連続でリーグMVPとベストナインを獲得する。4年時には6月の全日本大学野球選手権大会において初戦で強豪東北福祉大学を2安打完封し、大学No.1左腕として頭角を現す。京滋リーグでは通算で24試合に登板し18勝1敗の成績を残した。全国大会における活躍で斎藤佑樹、大石達也、澤村拓一とともに「大学球界BIG4」と称される〔。 世界大学野球日本代表に落選した際は佛教大学・菊野義朗監督が「見たことない」というほど意気消沈し、候補合宿から帰る新幹線内で泣き通したが、その後ハーレム国際大会に参加。「こっちもジャパンのユニホームですから。キューバを倒してきますよ」と語り〔 - スポーツ報知(2010年6月26日)〕、言葉通りキューバから2失点完投勝利を挙げ、この経験を通じて「代表から外れて良かった。この大会に出たことで目標が『メジャーリーガー』に変わりましたから。自身を支えてくれた家族や監督、選手の目の届く場でプレーして喜んでもらって、実績を積んでからメジャーに行きたい」と思うようになったという。 2010年8月のオープン戦で肩を痛めてからは登板できず、ドラフトで指名を回避されるかもしれないという不安感を持っていた〔が、中日ドラゴンズから1位指名を受けて入団。背番号は憧れで目標とする藤川球児と同じ22に決定。12月には京都府警北警察署の2011年啓発ポスターのイメージキャラクターに起用されることになった。ポスターは「安全、安心にストライク」の標語と佛教大時代の投球フォーム写真を組み合わせたもので、1年間の掲示を想定している〔中日大野が警察のポスター&イメキャラ - 日刊スポーツ(2010年12月2日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大野雄大」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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