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大長健一 : ミニ英和和英辞書
大長健一[おおなが けんいち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [けん]
 【名詞】 1. health 2. strength 3. stick-to-itiveness 
: [いち]
  1. (num) one 

大長健一 : ウィキペディア日本語版
大長健一[おおなが けんいち]
大長 健一(おおなが けんいち、1923年1月1日 - 1970年9月19日)は、日本ヤクザ大長組組長。福岡県北九州市門司区出身。「兇健」と呼ばれた。
== 大長組成立まで ==
大正12年(1923年)1月1日、福岡県門司市常盤町2丁目(現:福岡県北九州市門司区老松町)で生まれた。父・若一は、沖仲仕の小頭だった。部屋仲仕は常時30数人を抱えていた。母の名前は静江。弟は、大長定雄(後の大長組幹部)。幼い頃は、母方の姓である大塚を名乗っていた。静江の弟は、博徒大塚兼雄だった。静江の妹・絹江と早死にした最初の夫との子供が、博徒・大塚重雄中間市大野一家大野留雄組長の四天王の1人、竹下浅市〔竹下浅市は、合田一家初代の合田幸一と兄弟分だったので、大塚重雄は合田幸一と回り兄弟であった〕の兄弟分)だった。絹江が再婚して土谷家の嫁となり、生んだ子供が、土谷誠(後の土谷組幹部)、土谷信義土谷豊(後の土谷組初代組長)の土谷3兄弟だった。
昭和4年(1929年)、大長健一は、丸山尋常小学校に入学した。入学時から、大長健一は級友と喧嘩を始めた。同年夏ごろ、大長健一は学年の番長になった。
昭和9年(1934年)4月下旬、大長健一の仲間が、筑豊飯塚市からの転校生・宮崎斉蔵(通称:関門の虎。後の大長組幹部)に叩きのめされた。大長健一は、放課後、老松公園で、宮崎斉蔵と決闘をした。大長健一は、宮崎斉蔵を倒した。決闘後、大長健一は、宮崎斉蔵を自宅に案内し、傷の手当をした。その後、大長健一は、宮崎斉蔵にお好み焼きを奢った。これを契機に、大長健一と宮崎斉蔵は親友となった。
昭和10年(1935年)4月、大長健一と宮崎斉蔵は、丸山尋常小学校高等科に進学した。
昭和11年(1936年)、母・静江の妹・絹江(再婚して土谷家の嫁になっていた)が、土谷豊を生んだ。
昭和12年(1937年)3月、大長健一と宮崎斉蔵は、丸山尋常小学校高等科を卒業した。
昭和14年(1939年)ごろ、大長健一は、門司市で、宮崎斉蔵とともに事件を起こし、愛媛県宇和島市に逃亡した。同年、宮崎斉蔵は宇和島市である女性と知り合い、この女性の伝で、大長健一と宮崎斉蔵は関西に逃げた。その後、宮崎斉蔵は殺人事件を起こし、姫路市少年刑務所に送られた。
昭和15年(1940年)、大長健一は門司市に戻った。同年、大長健一は、和布刈神社近くの料亭の板前で、不良グループの番長格の男と決闘した。大長健一は、雪駄で番長格の男の頬を張りながら、番長格の男の総絞りの帯の端を掴んで引っ張り、大島のお召しの着物をはだけさせた。それから、大長健一は、懐の鎧通しで、番長格の男の腹部を刺した。大長健一は、番長格の男から着物を剥ぎ取り、着物を番長格の着けていた帯で縛って、通りの屋根へ投げ捨てた。大長健一の仲間の1人が、屋根に投げ捨てられた着物を取りに行き、その家の者に頼み込んで、着物をその家の天井裏に隠した。大長健一は、強盗傷害で7年の刑を受け、佐賀市の少年刑務所に送られた。
大長健一が少年刑務所に入っている間に、国信春一が、門司市の番長格となった。
少年刑務所時代、大長健一と宮崎斉蔵は、それぞれの少年刑務所の中で刺青を入れた。大長健一は、背中に牡丹、腿に将棋の王将を入れた。
昭和17年(1942年)12月26日、港湾運送事業等統制令に基づき、関門港一帯の各荷役請負業者が合併し、関門船舶荷役株式会社(現:関門港運株式会社)が設立された〔「門司港運株式会社」HPの「会社概要」 には、関門船舶荷役株式会社の設立が「昭和17年(1942年)12月26日」と明記されているが、本堂淳一郎『兇健と呼ばれた男』幻冬舎<アウトロー文庫>、2001年、ISBN 4-344-40128-Xでは、「昭和18年(1943年)1月」と記述されている〕。関門船舶荷役株式会社は、沖仲仕の小頭や部屋仲仕、それに関連する沖仲仕たちの合同会社だった。これにより、門司市の沖仲仕の組は解散し、沖仲仕の小頭制度は廃止され、沖仲仕の小頭たちは失職した。
昭和18年(1943年)、大長健一は、佐賀の少年刑務所から長野刑務所に移された。
昭和20年(1945年)6月29日午前0時15分から同日午前2時まで、門司市は、20機のB29の襲来により、門司大空襲に見舞われた〔門司大空襲では、死者55人、重傷者92人、全焼した建物3616戸、半焼した建物99戸だった〕。大長若一の家も、門司大空襲によって、全焼した。同年8月15日、終戦を迎えた。門司市は、応急対策として畑田町に、2軒長屋形式の戦災住宅を4棟造った。1軒には、6畳と3畳の部屋に、土間兼炊事場3畳分の間取りだった。大長一家は、畑田町の戦災住宅に引っ越した。
その後、暁部隊が、門司市内に「米軍が門司に上陸すると、米兵が女性を強姦し、子供を殺ろす。女性、子供、男も至急疎開したほうがいい。そのために、門司港駅から臨時列車も用意される」という情報を流した。門司市民には、「戦後疎開」を行う者が出た。この間に、朝鮮連盟中国連盟が手を結び、門司市に勢力を拡大した。
同年終戦後、大長健一の弟・定雄が、畑田町の戦災住宅に戻った。大長定雄は、小倉市での徴用中に胸を患った。大長定雄のもとには、10人ほどの仲間が集まってきた。その後、大長健一と宮崎斉蔵も、畑田町の戦災住宅に戻って来た。大長健一が戻ってくると、土谷3兄弟をはじめ、昔の仲間たちも畑田町の戦災住宅に集まった。大長健一を中心とする愚連隊が形成された。大長健一のグループは、朝鮮連盟の人と出会うと、暴行を加えた。暴行を受けた朝鮮連盟の者の要請で、朝鮮連盟の集団が敵討ちに来たころには、大長健一のグループは逃げ隠れていた。大長健一たちは、引き揚げる朝鮮連盟の集団の跡をつけた。朝鮮連盟の集団が解散し、各人が分散した直後、大長健一たちは、集団の中で幹部クラスの人間に狙いをつけ、襲いかかって暴行を加えた。中国連盟は、大長健一ら日本人側と和解し、経済面に目を向けた。在日中国人は、キャバレー「月世界」、「大世界」を門司市に起こした。「月世界」、「大世界」の系列店は各地に作られた。朝鮮連盟は、濁酒(どぶろく)を飲ませる店などがある白木崎(現:北九州市門司区風師1、2丁目)の拠点を死守するようになった。宮崎斉蔵は、白木崎にいる朝鮮連盟を攻撃した。
同年終戦後、国信春一のもとに、戦前の仲間が終結した。
このころから、大長健一には、蛭子町などの女郎屋街から、ミカジメ料が届けられるようになった。
同年、大長健一は、飲食店で、国信春一と出会った。大長健一の若衆が、国信春一の若衆を突き飛ばし、洋剃刀で、国信春一の背中を切った。切られた国信春一は、外科病院に運ばれた。20針を縫う傷だった。国信春一は、傷が癒えた後、大長健一の舎弟となった。後に、土谷3兄弟の末弟・土谷豊が、国信春一の妻の妹と結婚した。
同年、宮崎斉蔵が、白木崎を平定して、白木崎に住居を構えた。
昭和21年(1946年)、大長健一は、知り合いのボクシング・ジムの会長から、熊本県人吉市の博徒の助太刀を依頼された。人吉市では、東京からの流れ者が、仲間を集めて勢力を増し、勝手に賭場を開いていた。大長健一は、大長定雄や土谷信義ら5人を連れて、人吉市に入った。大長健一は、人吉市に着くと、東京からの流れ者が開いていた賭場に直行して、賭場を襲い、賭場の有り金を奪い去った。大長健一たちは、人吉市の博徒が用意した女郎屋に宿泊した。東京からの流れ者は、その夜のうちに仲間を集めて、大長健一たちが宿泊していた女郎屋を包囲した。大長健一は、女郎屋の主人に頼んで、東京からの流れ者たちが女郎屋になだれ込んでくると、女郎屋の電気を全て止めさせた。大長健一たちは、暗闇に紛れて、東京からの流れ者たちに襲い掛かった。東京の流れ者側からは、死者が出た。その後、大長健一たちは、女郎屋の裏木戸から脱出し、人吉市の博徒が用意してくれていた外車で、人吉市の博徒一家の幹部・宮崎(後に大長健一の舎弟となった)とともに人吉駅に向かった。外車は、人吉市の博徒の知り合いである新聞社社長の物だった。人吉駅では、駅長が出迎えた。新聞社社長が人吉駅駅長に連絡を取ってくれていた。大長健一たちは、列車に乗って、人吉市の博徒一家の幹部・宮崎とともに、人吉市を離れた。大長健一たちは、福岡県宗像郡福間町(現:福岡県福津市)の福間競馬場に行った。スタンドの中央で、合田一家合田幸一総長や工藤組工藤玄治組長らと朝鮮連盟の者たちとの喧嘩が起こった。大長健一たちは、合田幸一や工藤玄治を応援して、朝鮮連盟の者たちを叩きのめした。その後、大長健一たちは、博多に入った。土谷信義は、人吉市での殺人の罪を1人で背負い、警察に自首した。土谷信義は、殺人罪などで、懲役7年の実刑判決を受けた。大長健一たちは、東京へ逃亡した。
昭和22年(1947年)夏ごろ、大長健一たちは、門司市に戻った。
同年9月24日午前1時30分ごろ、大長健一と大長定雄は、強盗をするため、門司市大積花園町の農業・寺田義一の敷地内に侵入した。寺田義一は飼い犬が吼えるので目覚め、半裸体のまま玄関に出た。大長定雄が、寺田義一をあいくちで刺殺した。大長健一たちは、玄関側の木の下に、陸軍用戦闘帽と懐中電灯を遺棄して、逃走した。大長定雄は、大長健一の若衆・河辺修一とともに、山口県に逃げた。同年11月23日午前1時ごろ、大長定雄と河辺修一は、徳山駅で、不審訊問を受けて、徳山警察署(現:周南警察署)署員に逮捕された。大長定雄は、門司警察署に移送され、寺田義一殺害を自供した。やがて、大長健一も逮捕され、留置場で取り調べを受けた。大長健一は、「夜半、大長定雄が1人で家を抜けたので、心配になってこっそり後をつけて行った」と殺人現場に行ったことは認めたが、共謀共犯については否認し、後は無言を通した。大長健一は拘留を解かれた。
門司警察署は、宮崎斉蔵に対しても、捜査網を敷いた。夜、宮崎斉蔵は、機雷で封鎖されていた関門海峡を〔昭和23年(1948年)7月、アメリカ海軍掃海艇8隻が門司港に来港し、本格的な機雷の除去が開始された。1年3ヶ月で掃海が終了した〕、泳いで渡り、捜査網を突破して、下関市に上陸した〔本堂淳一郎『<兇健>と呼ばれた男』幻冬舎<アウトロー文庫>、2001年、ISBN 4-344-40128-XのP.92には、「しかし真実はおかしいことに、宮崎斉蔵はまったくの金槌なのだ」「宮崎は周防灘から瀬戸内に面した田野浦の漁師に頼み、機雷の比較的少ない東寄りの海峡を漁船で渡って下関に逃亡したのである」と記述されている〕。宮崎斉蔵は、この行動から、「関門の虎」と呼ばれるようになった。
このころから、大長健一のグループは、大長組と呼ばれるようになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大長健一」の詳細全文を読む




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