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大関 増裕(おおぜき ますひろ)は、幕末の大名。下野黒羽藩の第15代藩主。 == 略歴 == 天保8年(1837年)12月9日、遠江横須賀藩主・西尾忠善の嗣子である西尾忠宝の三男として生まれる。文久元年(1861年)、大関増徳の養嗣子となり、10月9日に跡を継いだ。文久元年(1861年)11月に将軍・徳川家茂に御目見して12月に従五位下、肥後守に叙任する。文久2年(1862年)4月に講武所奉行、次いで11月に陸軍奉行に任じられ、幕府の軍制改革に努めるが、病をえて文久3年(1863年)3月に辞任した。同年5月、初めての国入りに際し、自らに全権委任することを家臣らに認めさせ、西洋式砲術の導入するなど藩政改革に取り組んだ。慶応元年(1865年)に新設された海軍奉行に任じられ、慶応2年(1866年)8月には若年寄格、慶応3年(1867年)1月に若年寄となった。しかし慶応3年(1867年)12月9日、銃猟の際に死亡した。享年31。 子は全て早世していたため、増裕の死は養子が決まるまで秘匿され、増勤が急養子として跡を継いだ。 増裕はまた、作新学院の名前の由来となる藩校作新館を創設した。この校名は勝海舟が名付けたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大関増裕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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