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大坂の陣(おおさかのじん)は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)の総称。江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。大坂の役(おおさかのえき)とも称する。 == 端緒 == 豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍を指揮して三成ら西軍を撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(直轄地)を処分、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石程度まで削がれた〔このことによって豊臣家が一大名に転落したとする見解と(今谷明『武家と天皇』)、豊臣家が西国を支配する二重公儀体制であったとする見解がある(笠谷和比古)。〕。 慶長8年2月12日(1603年3月24日)、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり幕府のヒエラルキー社会では別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。 同年7月、徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。 慶長10年(1605年)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍を率いて上洛した。同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼はこうして右大臣になったが、秀忠の将軍職継承は天下にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており〔毛利輝元書状(『萩藩閥閲録』)、『義演准后日記』慶長七年十二月晦日条、『鹿苑日録』慶長八年四月二十日条(当時の僧録は西笑承兌)など。〕、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが〔関ヶ原の戦いの直後に九条兼孝が関白に任官したことにより、秀頼が関白就任への可能性を絶たれたとする見解(今谷明『武家と天皇』)もある。慶長10年には兼孝の次に摂関家の近衛信尹が関白に任じられている。〕、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった。〔渡邊大門『大坂落城』pp33-65。〕。 5月8日、秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求するなど友好的対話を求めた。この時、淀殿は会見を拒否し両者の関係は悪化するが家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている〔。 慶長16年(1611年)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見)〔2人の応対や礼法などを分析し、この会見によって秀頼が家康に臣従させられたとするの見解もあるが(今谷明、本多隆成、渡邊大門)、あくまで対等な立場での会見であったとの解釈もある(笠谷和比古)。〕〔。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17年(1612年)には前年上洛していなかった東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない〔これをもって秀頼の臣従は成っていないとする見解(笠谷和比古)と、秀頼を慮りつつ孤立化を図ったとする解釈がある(渡邊大門)。〕。 二条城の会談により両者の緊張は緩和したものと思われた。しかし、慶長12年(1607年)に結城秀康、慶長16年(1611年)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなると、豊臣家の孤立はいっそう強まり、その焦りからか幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり〔慶長11年に、家康は朝廷より武家官位推挙権を獲得していた。豊臣家は依然として徳川幕府体制の外にあったため、幕府の制定した法令に縛られないというのが豊臣側の論理である。〕、兵糧や浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。 豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。。 こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。 且元は大坂へ戻り、9月18日、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。 *秀頼を江戸に参勤させる *淀殿を人質として江戸に置く *秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する この案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。秀頼や木村重成からの調停があったものの、28日に高野山に入るとして大坂城を出ることを決めたが、これは秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として改易が決められる。10月1日に片桐且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を退去した。 且元は慶長18年に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあることとなり〔、豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになった。家康はこの件を根拠にして諸大名に出兵を命じ、大坂の陣が勃発している。〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大坂の陣」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Siege of Osaka 」があります。 スポンサード リンク
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