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大阪スタヂアム興業 : ミニ英和和英辞書
大阪スタヂアム興業[ごう, わざ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう]
 【名詞】 1. interest 2. entertainment 3. pleasure 
興業 : [こうぎょう]
  1. (n,vs) industrial enterprise 
: [ごう, わざ]
 【名詞】 1. deed 2. act 3. work 4. performance

大阪スタヂアム興業 ( リダイレクト:大阪スタヂアム#運営会社 ) : ウィキペディア日本語版
大阪スタヂアム[おおさかすたぢあむ]

大阪スタヂアム(おおさかスタヂアム)は、かつて大阪府大阪市浪速区難波中二丁目に存在した野球場プロ野球南海ホークス近鉄パールス大洋松竹ロビンスが本拠地として使用していた。
通称は「大阪球場」(おおさかきゅうじょう)〔「大阪スタヂアム」および「大阪スタヂアム興業」は大阪球場を運営する事業者の名称であり、球場正面看板および観戦チケットは「大阪球場」表記となっている。また、本球場の跡地に建設された「なんばパークス」のサイトや南海球団の後身にあたる福岡ソフトバンクホークスのサイトにおいても「大阪球場」の表記となっている。〕。南海難波駅の南口に面した駅前に存在したため、「ナンバ(難波)球場」という通称でも親しまれた。
==歴史==
南海は戦前、堺市にあった中百舌鳥(なかもず)球場を主本拠にしていたが、グラウンドの立地条件が悪く不便だったので公式戦での使用機会が少なかった。特に戦後になってからは中百舌鳥での公式戦は1試合も開催されなかった。
1948年の戦後第3回の日本職業野球リーグで優勝した際、GHQ経済科学局長のウィリアム・フレデリック・マーカット少将(M資金の語源)が南海球団の松浦竹松社長に「ホームタウン・ホームグラウンドはどこか?」と問うと松浦は「大阪府が本拠であるが、自前のグラウンドがないので甲子園を使わせていただいている」と答え、マーカットは自前のグラウンドを建設してもいいと提案。そこで、これまで公式戦を開催したことのなかった大阪市に目をつけて、南部の最大の繁華街である南海難波駅の南口に面した南西側駅前の旧専売局(現:日本たばこ産業)の工場跡地に建設した。この地は江戸時代に米蔵(難波御蔵)が置かれていたために、現町名の以前は(難波)蔵前町という町名であった。また、同じ大阪を拠点とする大陽ロビンスも北区玉江橋の関西相撲協会の所有地を買収して建設候補地にあげていたが、西宮市兵庫県)をフランチャイズとする大阪タイガース(阪神)阪急ブレーブスがターミナルの梅田に近く客を奪われることを恐れて反対した〔永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P47 - 48。「関西相撲協会」という団体は詳細不明。春秋園事件大日本相撲協会を脱退した力士が作った大日本関西角力協会があるが、1937年に解散している。ここでは出典の記述に従う。〕。阪神と阪急は南海の難波球場建設を支持。日本野球連盟は候補地を視察して難波案を採用したが、大陽のオーナーだった田村駒治郎は南海が一年以内に建設できなければ自分の手で球場を作ると主張したため、南海は一年以内に完成できるよう工事を進めざるを得なくなった〔永井良和『ホークスの70年』(ソフトバンククリエイティブ、2008年)P135〕。
1950年9月12日、工期わずか8ヶ月の突貫工事(施工:竹中工務店間組)で完成。戦災後の復興期にあり、粗末なバラックばかりがひしめき合っていた大阪市内の中心部で本格的な鉄筋コンクリート造りの大規模建築として完成した本球場は、当時「昭和大阪城」と称えられた。建設当初のグラウンドの広さは両翼84メートル、中堅115.8メートル。副収入を得るため、日本の球場では初めて観客席下に多数のテナントを入居させるスペースを設けた。この空間確保と狭い敷地に極力多くの客席を設けるという2つの目的によって、スタンドを急傾斜に設計したことから「すり鉢球場」と言われた。内野スタンドの傾斜は37度にも達し、打球音が銃撃音にも似た独特の反響を残すことは選手の間でも知られていた。また、酔っ払いが足を滑らせてスタンド下まで転げ落ちたという逸話まで残っている。
また、このグラウンドの狭さから当たり損ねの打球がフラフラと外野フェンスを越えて本塁打になってしまうなど、投手泣かせの球場であった。西鉄ライオンズOBの中西太は本球場でバットを折りながらも打球を外野スタンドへ入れたと言われている。杉浦忠皆川睦雄ら南海黄金時代のエース級投手の絶妙な制球力はグラウンドの狭さによって培われたとの説もある。
1951年、関西地区の球場で初めて夜間照明設備を設置。同年に初ナイターを開催(南海対毎日オリオンズ戦)。また、内野スタンドに日本初のボックス席を設けたのも本球場である。1950 - 60年代鶴岡一人監督率いる南海の黄金期で、毎年のように優勝争いを繰り広げており、当時の関西では南海は阪神をしのぐ人気球団であった。また、この当時の有名なエピソードとして1963年8月29日の南海対阪急戦で、雨による2時間14分の中断後、グラウンドにガソリンを撒いて火を付け水分を蒸発させ試合を再開させたというものがある。これは勝ち試合であることや日本記録ペースで本塁打を量産していた野村克也がこの試合でも1本打っていたためにそれを生かしたいという南海サイドの思惑によるものだった。なお、現在は消防法によりこのような行為は禁止されている。
しかし、1960年代半ばになってテレビ野球中継が本格化すると、放送がセ・リーグ読売ジャイアンツ(巨人)戦一辺倒であったため、関西では同じリーグの阪神が対抗馬として人気が集中することとなってパ・リーグの人気は長期低落傾向をたどり、さらに1970年代後半以降の南海の急激な弱体化とあいまって、本球場の観客動員数は低迷を極めるようになった。ミナミのド真ん中、南海本線の終点である難波駅南口の南西側駅前という好立地にも関わらず球場を管理していた大阪スタヂアム興業の社史には、本球場の年間観客動員の実数が1965年以降、南海最終年の1988年まで一度も50万人を超えることがなかったことが記されている(公式発表上では1988年の91万5千人が球団史上最多動員であった)。
南海の本拠地球場だったが、1957年までは近鉄パールスも本拠地としていた。これは本来の本拠だった藤井寺球場に当時ナイター設備がなかったためだが、近鉄が1979年と翌1980年日本シリーズに出場した際、主に試合をしていた日本生命球場(日生球場)の最大観客収容人数がシリーズ開催基準の3万人以上に満たず、藤井寺球場もこの当時はナイター設備が依然としてなかったため、近鉄はやむを得ず両年とも本球場を借りて開催した(対戦相手は両年とも広島東洋カープ)〔日本シリーズ前のプレーオフも本球場で開催した(1979、1980年とも)。〕。他にも1953年から1954年までセ・リーグの大洋松竹ロビンスが本拠地として(1951年から1952年までも合併前の松竹ロビンスが準本拠地として使用)、そして阪神も甲子園にナイター照明が設置(1956年)されるまで準本拠地としていたため、本球場の正面には南海、近鉄、阪神の球団旗をあしらった看板が掲げられていた。なおこの間、1954年7月25日の阪神対中日ドラゴンズ戦では判定と退場処分をめぐって二度にわたり紛糾、興奮した観客がそれぞれグラウンドに進入したため没収試合となる事件が起きた〔大和球士は著書『真説日本野球史7』で「難波事件」、阪神の球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』では「大阪球場事件」と記している。〕。
南海としての最後の公式戦は1988年10月15日の対近鉄戦。西武ライオンズとのし烈な優勝争いをしていた近鉄を相手に互角の白熱戦を展開。岸川勝也の決勝本塁打で南海が6-4で勝利した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大阪スタヂアム」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Osaka Stadium 」があります。




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