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大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。 ==会議に至る背景== 征韓論をめぐる明治6年(1873年)10月の政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、政府内で薩長閥のトップは大久保だけになってしまう。 政府に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児島県においては私学校党による県政の壟断を招き、また板垣らは愛国公党を結成して自由民権運動を始動するなど、不穏な政情が世を覆っていた。そのような状況下、赤坂喰違坂で岩倉が不平士族の武市熊吉らに襲撃される事件(喰違の変)が発生した。さらに左大臣に就任した島津久光が、政府へ保守的な改革反対の建白書を提出したことに始まる紛議によって、政局が混迷した。政治改革のための財政的基盤となる地租改正も遅々として進まず、次第に大久保も焦り始めていた。 当時官界を去り、大阪で実業界に入っていた井上馨は、この情勢を憂い、混迷する政局を打開するには大久保・木戸・板垣による連携が必要であるとの認識を抱き、盟友の伊藤博文とともに仲介役を試みる。木戸との連携の必要性を感じていた大久保もこれに応じ、伊藤に木戸との会談の斡旋を依頼、自ら大阪へ向かう。明治7年(1874年)12月、井上は、山口県へ帰っていた木戸を大阪に呼び寄せ、また自由民権運動の士小室信夫・古沢滋らに依頼して、東京にいた板垣も招いた。こうして大阪に集った大久保・木戸・板垣三者による協議が、井上・伊藤を周旋役として行われることとなった。 またこの背景には、井上と同じように官界を去って実業界入りしていた五代友厚の斡旋があり、五代邸は大阪会議の準備会談として使われ、大久保や伊藤らが何度も往復したという。大久保は下準備のためにおよそ一か月間もの間五代邸(現在の日銀)に入り、年末年始を五代邸で過ごした。他方、木戸も来阪すると五代邸に大久保を訪ね、碁を囲んだ。このことからも、両者は五代邸で囲碁を楽しんだことがわかる。五代は大久保のためには労を惜しまなかったため、大久保から五代に宛てた「松陰(友厚の号)君へは近々勅丈にても御差立御模様に候間為御心得申上置候」との手紙は、五代が単なるお膳立・斡旋だけでなく、会議の内容に相当立ち入った積極的な役割を果たしたことを想像させる。大久保・木戸・板垣の三者の思惑は全く別のものであったが、このように大久保の相談役そして、板垣退助との仲介役としてこの不一致を穏便にまとめた五代友厚らによって、大阪会議を成功へと導いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大阪会議」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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