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大阪市立南市岡小学校(おおさかしりつ みなみいちおかしょうがっこう)は、大阪府大阪市港区にある公立小学校。 中小工場の集積する工業地域を校区としている。また学校緑化に力を入れ、「全国花いっぱいコンクール」の賞も複数回受賞した経験がある。 == 沿革 == 地域の児童数の増加により、1930年11月1日に大阪市市岡第二尋常高等小学校(現在の大阪市立市岡小学校)から分離する形で、大阪市南市岡尋常高等小学校として現在地に開校した。1941年には国民学校令の施行により、大阪市南市岡国民学校に改称している。 太平洋戦争の戦局悪化により、大阪市の国民学校児童に対して1944年以降の学童疎開が指示された。学童疎開は縁故によるものを原則としたが、縁故に頼れない児童については学校から集団疎開に参加させることにした。集団疎開先の府県は各行政区単位で割り振られ、港区の国民学校の集団疎開先は香川県が指定された。南市岡国民学校の児童は香川県三豊郡本山村・比地大村(現在の三豊市)への集団疎開を実施した。 1945年3月13日深夜から翌3月14日未明にかけての第一次大阪大空襲では校舎が被災し、また校区にも大きな被害を受けた。戦災の影響で1946年に休校となり、近隣の大阪市本市岡国民学校(1947年大阪市立本市岡小学校、1948年大阪市立市岡小学校)に統合された。 校舎は終戦直後、戦災被災者向けの仮設住宅として使われたのち、1951年以降大阪市立市岡商業高等学校が使用した〔市岡商業高校(旧制市岡商業学校)は現在の港区磯路3丁目に校舎があったが、大阪大空襲で校舎を全焼し、以降は市内の小学校を仮校舎として転々としていた。〕。 地域の復興により学校再開を求める声があがり、1958年に大阪市立南市岡小学校として再開した。市岡商業高校は1956年に港区千代見町2丁目(現在の弁天1丁目)に校舎を建てて部分移転し、以降は小学校敷地を分校として一部使用していた。そのため大阪市立市岡商業高等学校と校舎を共用する形となった。市岡商業高校は翌1959年に千代見町に完全移転し、敷地を小学校が全面使用することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大阪市立南市岡小学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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