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大阪市立柏里小学校(おおさかしりつ かしわざと しょうがっこう)は、大阪府大阪市西淀川区にある公立小学校。 西淀川区南東部の柏里・花川を校区とする。 == 沿革 == 学校所在地周辺は、大阪市編入前は西成郡鷺洲村(1911年町制を施行して鷺洲町)に属していた。 鷺洲村は現在の北区・福島区・淀川区・西淀川区にまたがる広い村だったことに加えて、新淀川の開削によって北部の塚本(現在の淀川区塚本および西淀川区柏里付近)および海老江新家(現在の西淀川区花川付近)が飛地状の地域になっていた。そのため1910年に塚本に西成郡鷺洲尋常高等小学校(現在の大阪市立鷺洲小学校)の分教場が設置され、塚本・海老江新家在住の1・2年児童が通学したことが、学校の始まりとなっている。 1912年には西成郡鷺洲第三尋常高等小学校(現在の大阪市立海老江西小学校)が開校した。これに伴い分教場は鷺洲第三校の分教場へと移管されている。 高学年児童は本校である鷺洲尋常高等小学校・鷺洲第三尋常高等小学校まで通学していた。 1924年10月15日付で鷺洲第三尋常高等小学校より独立し、鷺洲町大字塚本539番地(のち西淀川区西塚本町2-5、1943年柏里町に町名変更。現在の塚本駅西出口付近)に西成郡鷺洲第五尋常小学校として開校した。翌1925年には鷺洲町が大阪市に編入したことに伴い、大阪市鷺洲第五尋常高等小学校と称した。 国民学校令により、1941年には大阪市柏里国民学校へ改称した。柏里は付近の地名からとられた。神功皇后の三韓征伐の伝説に関連し、この地で柏の葉に餅をのせて献上したという伝説が残ることから、柏里の地名がついたと伝えられている。 また1941年4月には西淀川区(1943年区の境界変更により東淀川区)塚本町3-10に第一分校を設置している。さらに1941年7月には西淀川区野里町178-3に第二分校を設置した。 第一分校は1946年に大阪市田川国民学校(現在の大阪市立田川小学校)分校へ移管され、1949年に大阪市立塚本小学校として独立している。また第二分校は1947年に大阪市立歌島中学校敷地として転用された。 太平洋戦争の戦局悪化により、1944年以降学童集団疎開が実施されることになった。各行政区ごとに疎開先の府県が割り当てられ、西淀川区の国民学校では香川・徳島両県と大阪府三島郡への疎開が決まった。柏里国民学校では徳島県板野郡北灘村(現在の鳴門市)と大阪府三島郡五領村(現在の高槻市)への疎開が実施され、現地の北灘東国民学校(現在の鳴門市立北灘東小学校)・五領国民学校(現在の高槻市立五領小学校)を借用して授業を実施した。 1945年6月15日の大阪大空襲では、本校と第一分校を全焼する被害を受けた。 1947年の学制改革により大阪市立柏里小学校となった。当時の敷地は国鉄塚本駅前にあり、駅に近すぎて騒がしいことや、近くに高圧線の鉄塔があったことから、1950年頃から学校移転の話が具体化した。空襲で焼けた現在の土地を買い入れて移転用地とし、1953年11月に現在地に移転している。旧敷地は現在地移転後もしばらく分校として使用したが、分校は1960年3月に閉鎖している。 1970年代前半には体育教育に力を入れていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大阪市立柏里小学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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