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大阪市立豊崎小学校(おおさかしりつ とよさき しょうがっこう)は、大阪市北区にある公立小学校。 梅田地区から北へ1kmほどの都心部に位置する小規模校で、2006年度時点では1学年あたり10-20人前後、全校生徒は約110人。地域との連携に力を入れている。 校章はカタカナの「ト」を4つとカタカナの「キ」を3つ組み合わせたデザインとなっている。このデザインは学校名の「トヨサキ」の語呂にも通じている。 == 沿革 == 学校所在地周辺は大正時代まで西成郡豊崎町に属していた。豊崎町では大正時代には、大阪市に近接している地理条件や工場の地域進出などにより人口が急増し、それに伴い地域の児童も増加していた。 大阪市豊崎第一尋常高等小学校(現在の大阪市立豊崎本庄小学校)の校区を分離する形で、当時の西成郡豊崎町で3番目の小学校・西成郡豊崎第三尋常小学校として、1915年に開校した。 豊崎町は1925年に大阪市に編入した(1925年東淀川区、1943年大淀区、1989年北区)。これに伴い大阪市豊崎第三尋常小学校へと改称した。 1941年には国民学校令の施行により、大阪市豊崎国民学校へ改称した。太平洋戦争の影響で大阪市の国民学校では1944年以降、児童の学童疎開が実施されることになった。縁故のないものは集団疎開をおこなうことになり、疎開先の府県は各行政区ごとに割り当てられた。当時学校周辺が属していた大淀区では京都府北部が疎開先として割り当てられ、豊崎国民学校では京都府天田郡上川口村・下川口村(いずれも現在は福知山市に編入)への疎開を実施した。 1945年6月1日の第二次大阪大空襲で校舎を全焼した。また校区への被害も大きかったため、終戦直後の1946年には大阪市豊崎本庄国民学校(1947年大阪市立豊崎本庄小学校)に統合されて休校となった。 その後地域の復興により、1954年に豊崎本庄小学校分校として元の場所で再開し、翌1955年に大阪市立豊崎小学校として独立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大阪市立豊崎小学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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