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大須賀 康高(おおすが やすたか)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。 == 略歴 == 大永7年(1527年)三河額田郡洞村(現愛知県岡崎市洞町)に大須賀正綱の子として生まれる。 はじめ娘婿の榊原康政と共に酒井忠尚に仕えていたが、忠尚が徳川家康に反旗を翻すと、これに従わずに康政とともに家康に仕えるようになる。その後は旗本先手役として活躍し、天正元年(1573年)に遠州馬伏塚を武田軍の侵攻から守りきった。天正6年(1578年)に甥の大須賀弥吉(小吉)が高天神城攻略で、抜け駆け行為をしたため逆鱗に触れた家康から切腹を申しつけられる事変があった〔『徳川実紀』〕。天正9年(1581年)の高天神城の戦いで手柄を認められて天正10年(1582年)、遠江横須賀城主となった。 本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱においては曽根昌世、岡部正綱と共に先鋒隊として派遣され武田遺臣や有力寺社に対して所領の安堵を行っている〔酒井陽子「家康家臣団における大須賀康高の役割」『日本歴史』第612号、1999年〕。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも先鋒として参加し、三好秀次(豊臣秀次)軍を追い詰めたが、堀秀政の反撃を受けて敗れた。天正13年(1585年)の真田昌幸攻めでは、井伊直政と共に苦戦する味方の救援に赴いた(上田合戦)。 天正17年(1589年)6月23日に死去。享年63。嗣子がなかったため、榊原康政に娶わせた娘が生んだ忠政を養子に迎えて後継ぎとした。実は康高には信高という実子があったが、仏門に入り、慶長8年(1603年)に城下に善福寺を開山した。 徳川氏の家臣においては新参にも拘らず、家中において重度の武功を挙げたことから、徳川二十将の1人として数えられる。大須賀氏が後に榊原氏に吸収されたために、あまり記録には残っていないが、実際は三傑や大久保忠世・鳥居元忠に匹敵する武功を挙げた人物である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大須賀康高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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