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大鷲平 : ミニ英和和英辞書
大鷲平[おおわし ひとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [わし]
 【名詞】 1. eagle (Accipitridae family) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

大鷲平 : ウィキペディア日本語版
大鷲平[おおわし ひとし]
大鷲 平(おおわし ひとし、本名:伊藤 平(いとう ひとし)、1946年1月12日- )は、1960年代後半から1970年代にかけて活躍した大相撲力士である。長野県佐久市大字志賀出身で、現役時代は若松部屋に所属した。最高位は西前頭3枚目(1975年1月場所・1976年5月場所)。身長190cm、体重115kg。得意手は左四つ、上手投げ、吊りなど。
== 来歴・人物 ==
幼少時は普通の体格であったが、小学生の頃から急に身長が伸び始めた。東村立東中学校に在学中は、野球部に在籍。制球は覚束なかったが、豪速球を武器に投手として活躍していた。
中学卒業後、親戚からその活躍ぶりを聞き付けた同じ佐久市出身の西岩親方(元前頭18・若嵐)の勧誘を受け、本人も相撲が嫌いでなかったためあっさり角界入りが決まった。その後上京し、西岩が身を寄せていた高砂一門のひとつ・若松部屋(師匠は元前頭3・鯱ノ里)へ入門。
1962年9月場所にて16歳で初土俵を踏み、翌11月場所、本名と同じ「伊藤」の四股名で序ノ口に付いた(その後、幕下時代の1964年11月場所より、「大鷲」に改名している)。
1968年7月、東幕下15枚目の地位で7勝0敗と好成績を挙げて幕下優勝を果たし翌9月場所、22歳で新十両に昇進。だが4場所十両を務めた後は、再び幕下に定着してしまった。しかし、2年2ヵ月に及ぶ長い幕下暮らしを経て、1971年9月場所で十両復帰を果たした。2年以上の長い停滞の主因は、新十両昇進前の幕下時代に患った腰痛であったが、十両復帰後九州に住むとある整体師にかかってからはの痛みも和らいでいった。
以降は幕下に落ちる事もなく、1972年11月場所にて、26歳で新入幕を果たした。
入幕後はその長身を生かし、肩越しから取る上手から攻める相撲で、主に幕内中位から下位で活躍した。だが、立ち合いが拙く、押しに弱いという欠点があったため幕内上位では活躍できなかった。横綱大関陣との対戦圏内には2度進出したが、いずれも大敗している(1975年1月場所・・・5勝10敗、1976年5月場所・・・3勝12敗)。1974年11月場所で、優勝した小結魁傑から14日目に挙げた勝利が、数少ない印象に残る勝ち星である。
東十両11枚目で2勝13敗と惨敗し、幕下陥落が確定した1978年1月場所を最後に、32歳で引退。1962年11月場所で序ノ口に付いてから引退するまで、約15年間を無休で過ごし、その間「988回連続出場」という記録を残している。
引退後は年寄中村を襲名し、その後同・山響に名跡変更したが、1980年9月場所限りで廃業した。
現在は、郷里・佐久市で相撲料理の店を経営している。酒は全くの下戸で、奈良漬けでも酔ったという。コーヒー党として知られた。
息子は、自身と同じく若松部屋に所属した元大相撲力士(「朝鷲」の名で取り、最高位は序二段)で、プロレスラー大鷲透

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大鷲平」の詳細全文を読む




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