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大鷲 透(おおわし とおる、1975年12月24日 - )は、長野県佐久市出身で若松部屋所属の元大相撲力士、現在はフリーランスの男性プロレスラー。本名は伊藤 透(いとう とおる)。大相撲時代の四股名は朝鷲(あさわし)で、最高位は西序二段42枚目。実父は元大相撲力士の大鷲平(前頭3枚目)で、リングネームも父の四股名にあやかったものである。通称は「透ちゃん」「ワシ関」。 == 経歴 == 元力士の父の後を追うように大相撲若松部屋に入門し、朝伊藤の四股名で1993年3月場所に初土俵を踏むが、膝の怪我のために1996年には番付外まで陥落した。1997年1月場所には再度前相撲から始め、翌3月場所には四股名を朝鷲と改名し再出世、しかし1999年1月場所に最高位となる西序二段42枚目まで昇進するが膝の怪我がもとでこの場所限りで引退した。 一度は調理師を目指すが、元々憧れていたプロレスラーになるべく闘龍門に入門、闘龍門7期生になる。T2Pの一員としてメキシコに渡り2000年9月2日にデビュー。一匹狼のヒールとして活動していたが、イタリアン・コネクションを離脱した"brother"YASSHI、ドッティ修司(現・近藤修司)と共にはぐれ軍団(仮)を結成、のちに悪冠一色に発展。DRAGON GATEに移ってからも傍若無人ぶりを発揮していたが、2004年にリング外における素行不良・職務怠慢が原因で他のメンバーと共に解雇される。 2005年はdragondoorの興行に参戦し、大阪プロレスではヒールユニット・武侍漢(現・ベンダバル)のリーダーとして活躍。同じく2005年から参戦しているDDTプロレスリングのリングではディザスターボックスを率いて、2006年4月2日にKO-D無差別級チャンピオン獲得。男色ディーノの向こうを張ってゲイキャラクターを演じるなど、レスラーとしての幅を広げつつある。2006年2月7日dragondoor後楽園大会で川田利明とシングルで対戦するも完敗。 9月、かねてより念願だった自主興行「大鷲プロレス」を故郷・佐久市体育館で行う。川田やDDT、エルドラドの選手が協力し、大成功で幕を閉じる。また大鷲プロレスでは大鷲、アブドーラ小林(大日本プロレス)、征矢学(WRESTLE-1)、\(^o^)/チエ(ハッスル)という長野県出身者らとタッグを結成した。 2007年2月17日、曙と組んでスモー・リキシ&ジョニー・ダン(荒谷望誉の代役)とのタッグマッチで全日本プロレスへの初参戦を果たした。全試合終了後にはチャンピオン・カーニバルへの出場をアピール、後日正式に初出場が決定したが、結果は全敗となった。なお、盟友のTARU、近藤、YASSHIとの絡みは無かった。 2008年、ElDorado解散後、親会社ソウルコネクション所属となる。 2009年、SOSを加えた「鷲OS」を結成し、自主興行「紅白プロレス合戦」の開催を発表し、以降定期的に興行を行う。 同年、ソウルコネクションの活動停止に伴い、かつての所属選手と共にフリーランスとして活動する。 2010年、12月いっぱいをもって無期限休業。紅白プロレス合戦については継続して興行が行われる。紅白プロレス合戦では、大鷲のリングネームを2011年2月より大橋篤が引き継ぎ、大橋が「二代目大鷲透」として出場した。 2012年5月23日、紅白プロレススペシャル新宿FACE大会にて、メインイベントの6人タッグマッチで復帰。休業中に実家のちゃんこ屋「大鷲」を継ぐための修行をしていたこと、また2011年に第1子が誕生したことを試合後に報告した。 現在は「大鷲」の経営とともに佐久市内でのプロレス興行のプロモーターとしても活動。レスラーとしての活動は不定期となっている。 2013年2月17日、DDTに本格復帰。 2014年2月5日、紅白プロレス最終興行を行う。 2015年現在参戦団体はDDTとZERO1であり、DDTでは高木三四郎・平田一喜と共に3人組ユニット『T2ひー』の一員として活動中。その他に大日本プロレスにも参戦することがある。 2015年9月27日、DDT後楽園ホール大会でデビュー15周年記念試合&DDT参戦10周年記念試合を行い桃鷲透のコスチュームで登場。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大鷲透」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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