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天勝野球団(てんかつ〔岩本憲児・佐伯知紀『聞書き キネマの青春』 リブロポート 1988年 143-145頁〕やきゅうだん)は、1921年(大正10年)から1923年(大正12年)まで存在した日本の職業野球球団。日本で2番目のプロ野球チームである。 == 概略 == === 歴史 === 1921年(大正10年)2月、松旭斎天勝の夫であり、「天勝一座」の支配人である野呂辰之助により天勝野球団が結成される。コーチは小野三千麿、選手は大学出身者が中心であった。球団の結成理由について、天勝は後に『天勝一代記』の中で一座の広告塔が目的だったように書いているが、当時のスポーツ雑誌『野球界』の中で天勝野球団の鶴芳生(野呂の変名と見られている)は「広告本位のチームではありません(中略)商売と野球の試合は別問題です。ボールに負けた故に見物に来ない人は、そんな狭い量見の人は来て頂かなく共結構です」と記しており、天勝はともかく野呂は広告塔としてではないチームを志向していたとみられている。 チームは一座の巡業に合わせて国内各地、更には中国、台湾と転戦。 翌1922年(大正11年)、小野が大毎野球団(当時、大阪毎日新聞が所持していたセミプロの強豪チーム)に入団するためコーチを辞したことをきっかけに、野呂は本格的なチーム強化に着手。この時中澤不二雄らが加入している。1923年(大正12年)には、主将の鈴木関太郎が『野球界』誌上で「プロフェッショナル球団」であることを宣言。 同年、大毎野球団を破るなどの成果を上げた後に、一座の公演とともに満州、朝鮮に遠征。当時の強豪であった大連実業団、大連満州倶楽部を含む各チーム相手に21勝1敗の好成績を残す。6月21日には京城(現・ソウル特別市)で、遠征してきていた日本運動協会と対戦。日本初となるプロ球団同士の試合となったこの試合に6-5で勝利するも、3日後の2回戦では1-3で敗れた。この後8月30日に芝浦球場で3戦目が行われ、これは協会が5-1で勝利している。 この直後の9月1日に関東大震災が発生。天勝一座は、本部が全焼し衣装や道具を全て失うなどの深刻な被害を受け、球団は自然消滅した。ただ、天勝一座は再建され、翌1924年(大正13年)1月からアメリカ巡業を行い、ハワイ、アメリカ本土で約4ヶ月の間、在留邦人相手に公演を行った〔『異端の球譜 「プロ野球元年」の天勝野球団』234-243頁〕。その後も天勝一座は存続し興業を続けたという〔『異端の球譜』269頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天勝野球団」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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