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天洋丸級貨客船(てんようまるきゅうかきゃくせん)とは、かつて東洋汽船および日本郵船が所有していた貨客船のクラスの一つ。日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えたクラス、またタービン機関の使用を選択した最初のクラスとして、日本船舶史上の一大マイルストーンとなっている。 本級の実現には東洋汽船を率いていた浅野総一郎の熱意が大きく影響しており、競合船主との対抗上、当時の日本では前代未聞の大プロジェクトとして浅野の音頭取りによって建造が実現した。天洋丸級貨客船の存在が東洋汽船の経営にプラスになったかどうかはさておき、日本の船舶界、とりわけ造船業への影響と貢献は莫大なものがあった〔#三浦 p.111〕。3隻就航したが、1隻は海難事故により不幸にして早く失われ、残る2隻は東洋汽船の経営難から日本郵船に移籍の上、後継の浅間丸級貨客船と入れ替わるようにリタイアし、船舶改善助成施設の解体見合い船としてその生涯を全うした。 本項では、主に建造までの背景や特徴などについて説明する。 ==建造までの背景== 1896年(明治29年)6月に創業した東洋汽船は〔#三浦 p.70〕、(PM社)およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社()との提携によりサンフランシスコと香港間の航路を、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶6隻と自己の船舶3隻で開設する〔#三浦 p.71〕〔#山高 p.114〕。この航路のために用意されたのが日本丸級貨客船であり、経営も比較的順調に推移していた〔#三浦 p.73〕。 ところが、提携先の一つであるパシフィック・メイル社と、後発組の、ジェームズ・ジェローム・ヒル率いるグレート・ノーザン汽船会社は、ともに1万トンを越える大型船の建造に乗り出す〔#三浦 pp.93-94〕。パシフィック・メイル社の「コリア」 (') と「サイベリア」 (') は太平洋航路では初めての1万トン超の貨客船であり、続いて建造された「モンゴリア」 (') と「マンチュリア」 (') は1万3千トン級に、グレート・ノーザン汽船会社の「ミネソタ」 (') と「ダコタ」 (') にいたっては2万トンを超える大きさであった〔#三浦 p.98,100〕。1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった〔#三浦 p.98〕。日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし〔#創業百年の長崎造船所 p.165〕、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった〔#三浦 p.95〕。そんな中、浅野はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた〔#山高 p.126〕。浅野はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び〔、のちに1隻を追加発注した〔#三浦 p.96〕。これが天洋丸級貨客船である。) と「サイベリア」 (') は太平洋航路では初めての1万トン超の貨客船であり、続いて建造された「モンゴリア」 (') と「マンチュリア」 (') は1万3千トン級に、グレート・ノーザン汽船会社の「ミネソタ」 (') と「ダコタ」 (') にいたっては2万トンを超える大きさであった〔#三浦 p.98,100〕。1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった〔#三浦 p.98〕。日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし〔#創業百年の長崎造船所 p.165〕、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった〔#三浦 p.95〕。そんな中、浅野はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた〔#山高 p.126〕。浅野はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び〔、のちに1隻を追加発注した〔#三浦 p.96〕。これが天洋丸級貨客船である。) は太平洋航路では初めての1万トン超の貨客船であり、続いて建造された「モンゴリア」 (') と「マンチュリア」 (') は1万3千トン級に、グレート・ノーザン汽船会社の「ミネソタ」 (') と「ダコタ」 (') にいたっては2万トンを超える大きさであった〔#三浦 p.98,100〕。1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった〔#三浦 p.98〕。日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし〔#創業百年の長崎造船所 p.165〕、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった〔#三浦 p.95〕。そんな中、浅野はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた〔#山高 p.126〕。浅野はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び〔、のちに1隻を追加発注した〔#三浦 p.96〕。これが天洋丸級貨客船である。) と「マンチュリア」 (') は1万3千トン級に、グレート・ノーザン汽船会社の「ミネソタ」 (') と「ダコタ」 (') にいたっては2万トンを超える大きさであった〔#三浦 p.98,100〕。1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった〔#三浦 p.98〕。日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし〔#創業百年の長崎造船所 p.165〕、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった〔#三浦 p.95〕。そんな中、浅野はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた〔#山高 p.126〕。浅野はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び〔、のちに1隻を追加発注した〔#三浦 p.96〕。これが天洋丸級貨客船である。) は1万3千トン級に、グレート・ノーザン汽船会社の「ミネソタ」 (') と「ダコタ」 (') にいたっては2万トンを超える大きさであった〔#三浦 p.98,100〕。1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった〔#三浦 p.98〕。日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし〔#創業百年の長崎造船所 p.165〕、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった〔#三浦 p.95〕。そんな中、浅野はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた〔#山高 p.126〕。浅野はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び〔、のちに1隻を追加発注した〔#三浦 p.96〕。これが天洋丸級貨客船である。) と「ダコタ」 (') にいたっては2万トンを超える大きさであった〔#三浦 p.98,100〕。1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった〔#三浦 p.98〕。日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし〔#創業百年の長崎造船所 p.165〕、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった〔#三浦 p.95〕。そんな中、浅野はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた〔#山高 p.126〕。浅野はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び〔、のちに1隻を追加発注した〔#三浦 p.96〕。これが天洋丸級貨客船である。) にいたっては2万トンを超える大きさであった〔#三浦 p.98,100〕。1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった〔#三浦 p.98〕。日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし〔#創業百年の長崎造船所 p.165〕、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった〔#三浦 p.95〕。そんな中、浅野はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた〔#山高 p.126〕。浅野はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び〔、のちに1隻を追加発注した〔#三浦 p.96〕。これが天洋丸級貨客船である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天洋丸級貨客船」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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