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天津司舞(てんづしまい)、または天津司の舞(てんづしのまい)は〔天津司の読み仮名は、文化庁サイトなどでは「てんずし」とするものもあるが、現地での呼称および、地元の教育委員会監修により作成された甲府市公式ホームページ 、山梨県公式ホームページ では「てんづし」と表記されることから、この記事では「てんづし」と表記する。〕、山梨県甲府市小瀬町の天津司神社に伝わる、等身大でできた9体の木造人形を用いて田楽舞を演じる、神事芸能、伝統芸能である〔2012年5月7日閲覧。〕〔文化遺産オンライン – 天津司舞 2012年5月7日閲覧。〕。中世に起源を持つ傀儡田楽(くぐつでんがく)の一種であると考えられており、地元ではオテヅシさん、デッツクさんと呼ばれる。 田楽舞は日本各地の民俗芸能として一般的であるが、人形で演じる民俗は珍しく、1960年(昭和35年)11月7日、山梨県指定無形文化財に指定され、国により1970年(昭和45年)6月8日に記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された〔2012年5月7日閲覧。〕。さらに、1976年(昭和51年)5月4日には、文化財保護法の改正によって前年1975年(昭和50年)に制定された重要無形民俗文化財の第1回指定(初回指定)を受けた。文化庁による指定種別は、民俗芸能・渡来芸・舞台芸である〔〔天津司舞-山梨県主な文化財 (民俗文化財) 山梨県ホームページ。2012年11月20日閲覧。〕。 == 概要 == 天津司舞の行われる甲府市小瀬町は、甲府盆地のほぼ中央部、甲府市南部の平坦地に位置しており、1954年(昭和29年)に甲府市に編入されるまでは、西山梨郡山城村に属していた。小瀬地区のある旧山城村は、中世に開発された低湿地からなる稲作の盛んな一帯で、中世には稲積荘が成立した。 1971年(昭和46年)に甲府市街地を迂回する形で建設された国道20号の甲府バイパスが開通したことにより〔山梨日日新聞社編 『山梨の20世紀』 甲府バイパスが一部開通、142-143ページ 2000年8月10日 第1刷発行 ISBN 4-89710-696-6〕、小瀬町周辺は商業施設や宅地の開発が行われ、1986年(昭和61年)に開催されたかいじ国体のメイン会場として山梨県小瀬スポーツ公園が造成されるなど、昭和末期から平成にかけて急速に都市化の進んだ地区である。 小瀬町内に鎮座する天津司神社には、神を模した9体の木造等身大人形が安置されており、1年に一度行われる祭典当日、9体の人形は赤布で顔を覆われた状態で天津司神社から、隣町の下鍛冶屋町に鎮座する鈴宮諏訪神社まで、約1キロの御成道(おなりみち、現在は一部小瀬スポーツ公園敷地内)を御幸(おみゆき)し、鈴宮諏訪神社境内に設けられた御船囲い(おふねがこい)と呼ばれる幕囲の内側で、田楽法師を模した人形が赤布の覆面を外し、ささらや太鼓、鼓などを持ち田楽を舞う。 稲作の耕作過程を模擬的に演じる民俗として、田遊びがある。山梨県内で、は少女が模擬的な田植えを行う住吉神社(甲府市住吉)の御田植祭などの民俗事例があり、天津司舞は田楽囃子を人形が行う点が特異とされている。 天津司神社の社記によると「小瀬一帯が湖沼地帯であった頃に、12体の天津神が天から降りてきて舞をして遊んでいたが、そのうちの2神は天に帰り、1神は亡くなった。あとの9神の像を造って小瀬村の諏訪神社に祀ったのがはじまりである」と伝承されている〔天津司の舞保存会編 (1976)〕。 田楽舞いは各地の民俗芸能として一般的であるが人形で演じる民俗は珍しく、明治期から昭和初期にかけて注目された。 大正期には若尾財閥三代目の若尾謹之助が実業のかたわら郷土研究を行った。若尾謹之助は甲州財閥と呼ばれた明治期の実業家、初代甲府市市長でもあった若尾逸平の養子、民造の三男。1915年(大正4年)には中途に終わったものの「山梨県志」の編纂事業などを行った〔杉本(2008)、pp.80 - 81〕。 若尾は特に郷土文化や民俗に注目し、1916年(大正5年)には山梨県内の郷土玩具を紹介した『おもちゃ籠』などの著作がある。「山梨県志」における調査を基に大正5年に著された『甲斐志料集成、御祭礼及縁日』は、「若尾資料」とも呼ばれ、後述する江戸時代後期から長期間中断していた天津司舞の再現に欠かせない、今日の天津司舞の芸態を決定づけた重要な資料であると評されている〔影山正美 (2011)、pp.45-46〕。 一方、文部省嘱託で地理学者である小田内通敏は郷土教育により郷土愛を涵養することを目的とした郷土教育運動に基いて『綜合郷土研究』を開始し、第一弾として1935年(昭和10年)に山梨県における調査が実施された。調査では山梨県内の郷土史家や教員らも多く参加し、この時に天津司舞の存在が注目された〔杉本(2008)、pp.86 - 88〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天津司舞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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