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天津租界(てんしんそかい)とは、1860年から1945年のあいだ、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、ロシア、日本、オーストリア=ハンガリー帝国とベルギーなどの国が不平等条約や協定を通じて中国の天津旧市街の南東部に行政自治権と治外法権を設定した租借地である。1860年、英国がまず他に先駆けて天津に租界を設立し、最大で9ヶ国が天津に租界を設立していた。同時に、天津は中国が最も早く租界を回復した都市の1つでもある。1945年、中華民国政府が日中戦争に勝利したのち、正式に天津の最後の二つの租界が回復され、天津租界の歴史は終結した。 天津租界は西洋文化と中国伝統、地域文化を併せ持ち、天津の多元的な文化の重要な部分を担っている。中国の近代歴史上、北方地域では最も繁栄した地方中心都市であり、近代的繁栄と栄光をしめしている。天津租界の中では中国接収後も各国の様式の建築がある程度残り、旧市街地域は今日に至るまで百年前の風格を留めている。 === 麻薬密売 === 関東庁事務官であった藤原鉄太郎の1923年2月付の報告である「阿片制度調査報告」には、天津に於ける阿片等の麻薬取り締まりは杜撰で、密輸入が極めて多いと記されている。天津に在住する日本人5千名の七割はモルヒネその他の禁制品取引に関係を有し、薬種問屋はもとより、料理屋、雑貨屋ことごとく皆モルヒネの現物大取引をなし、居留地に於ける日本人の繁栄はモルヒネ取引の結果であり、徹底的に取り締まれば天津から日本人がいなくなる、とまで書かれた。本来阿片を取り締まるべき立場だったにも拘わらず、日本の天津領事官は中国側に発覚した場合を除いて事態を黙認していたので、中国側の警察や地元住人との間に軋轢が生じた〔小林, 元裕 「天津史 : 再生する都市のトポロジー」 東方書店 1999年6月 p.185-207 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天津租界」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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