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天眞正自源流(てんしんしょうじげんりゅう)は、武術の流派のひとつ。 == 流派の成立 == ===流派の伝承=== 天眞正自源流兵法は、飯篠家直が創始した新當流(天眞正伝香取神道)の道継であり、十瀬(小瀬)与三左衛門長宗(瀬戸口備前之守政基)が、創始した流派である。 十瀬与三左衛門長宗は、常陸大田(茨城県)、佐竹氏一族分系の小瀬氏とされる。 関ヶ原の合戦の後、徳川時代となり太平の世となるも、国境を接する肥後と薩摩は互いに剣術をはじめとする様々な武術を取り入れていた。 十瀬与三左衛門長宗は肥後に対抗するために薩摩藩に召し抱えられたものと考えられ、瀬戸口氏の養子となっている。 十瀬与三左衛門長宗は、その後改名し瀬戸口備前之守政基を名乗ることとなる。 瀬戸口氏は大隅国姶良郡蒲生郷正八幡若宮社の社家とされる。 開祖、瀬戸口備前之守政基が薩摩に渡り定住したのが永正年代の頃である。伝書に於いては瀬戸口備前守が薩州伊王滝に於いて、流儀の奧秘に開眼した事が伝えられている。 伝書の多くは天眞正自顕流の名で残されており、天眞正自源流と記された物は少なく、十瀬与三左衛門長宗(瀬戸口備前之守政基)が天眞正自顕流から天眞正自源流と名を変更したのは晩年のころと推測される。 瀬戸口備前守が成立させた流儀の思想と技術は、現29代宗家の手元に伝承されている三巻の伝書、『尊形』・『察見』・『聴書』である。『尊形』には流儀の技術の全容が網羅されており、『察見』には流儀の思想と兵法が明記され、『聴書』には先師の教えが示されている。 『聴書』に於ける先師の教えが流儀全ての根本となるところから本来、流祖となるべき瀬戸口備前守は開祖にして流儀名称の確定者となった所以である。 天眞正自源流兵法は、その譜代継承に於いて時代に応じた術理を擁立して今日に至っており、流儀に於いて行われる剣法・居合・体術等は、最古の遺産である「天眞刀」・「天眞剣」・「天地人陰陽五段之法形」に始まり、瀬戸口備前守が制定したとされる剣術組太刀である十二箇之太刀を初めとする52の法形を根本としている。又、戦場合戦時の野太刀兵法、更に槍術、長巻、小太刀等の法形が伝承されている。 流派内の伝承では流派の名前を口にするだけでも門下に暗殺をされるなど、存在を秘匿されていたとされ、そのため、天眞正自源流の存在が確認されたのは明治期以降となっているとされている。 ===伝承に対する異説=== 以上の伝承について綿谷雪は、示現流の伝承をもとにしたフィクションであろう、としている〔『増補大改訂 武芸流派大事典』綿谷雪、山田忠史編 東京コピイ出版部、1978年〕。天眞正自源流の系譜でも、薬丸自顕流第5代の薬丸兼慶より分かれており〔この系譜では何故か、示現流開祖の東郷重位と薬丸兼陳との師弟関係を記さず、示現流と薬丸自顕流が関係が無いかのように記している。〕、天眞正自顕流から直接分かれた流派ではなく、薬丸自顕流から分かれた流派と考えられる。実際に天眞正自源流の存在が確認されたのは明治期以降のことである。〔『鹿児島県史概説』川越政則 至文社、1958年〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天眞正自源流」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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