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天秀尼(てんしゅうに、慶長14年(1609年) - 正保2年2月7日(1645年3月4日))は、江戸時代前期の人物。豊臣秀頼の娘で、千姫の養女。鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持。 == 出生から出家まで == 母の名も〔三池純正2013 pp.45-46〕、出家前の俗名も不明である〔一部に「奈阿姫」とするものもあるが、その史料上の根拠は無い。三池純正は『豊臣家最後の姫』(p.46)で仮の名を泰姫としているが、これは出家後の名「天秀法泰」の諱「法泰」から東慶寺を指す系字「法」を避け「泰」の字を採ったものである。また仮の名であることを断っている。川口素生の「お江と徳川秀忠101の謎」 (Q.62) でも「出家前の名、俗名は不詳です」とある。〕。 記録に初めて表れたのは大阪城落城直後でありそれ以前には無い。同時代の日記『駿府記』〔史料雑纂2収録。元和元年5月12日条はp.303〕〔1611年(慶長16)8月1日から1615年(元和1)12月29日までの約4年半に及ぶ徳川家康周辺の記録・日記。この間に大坂の陣があった。筆者は後藤光次か林羅山ともいわれるが不詳。「駿府記」とは家康は当時将軍職を秀忠に譲り、駿府城に隠居していたため。同時代で家康の周囲での記録であるため史料価値は高いとされる。〕に大坂落城の7日後の元和元年(1615年)5月12日条に「今日秀頼御息女(七歳)、従京極若狭守尋出捕之註進、秀頼男子在之由内々依聞召、急可尋出之湯由所々費被触云々」とあるのが初出である。 なお、『台徳院殿御実紀』〔徳川実紀2収録。台徳院殿とは二代将軍秀忠の戒名。元和元年5月12日条はp.41〕巻37、元和元年5月12日条には「これは秀頼の妾成田氏(吾兵衛助直女)の腹に設けしを」とあるが、『台徳院殿御実紀』は19世紀前半に編纂されたものであり、同時代の史料には見られない。また、『台徳院殿御実紀』は「京極若狭守忠高は秀頼息女八歳なるを捕えて献ず」と八歳と記しているが、同時代史料では、『駿府記』のほか大坂落城の10日後の細川忠興書状などでも七つとなっており、慶長14年(1609年)の生まれと見られる。 同母か異母かは不明ながら、天秀尼の年子の兄・国松は直後の5月21日に捕らえられ、23日に六条河原で斬られたことが『駿府記〔史料雑纂2。「駿府記」元和元年5月21日条および23日条 p.303〕』『台徳院殿御実紀』〔徳川実紀2収録。元和元年5月21日条はp.42、5月31日条はp.43〕にある。 しかし天秀尼の方は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命された。『台徳院殿御実紀』前述の5月12日条には「北方(千姫)養ひ給いしなり」と、大坂城内に居た頃から千姫の養女であったとも読める記述があるが、東慶寺の由緒書には「大坂一乱之後、天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上意当山江入薙染、十九世瓊山和尚御附弟に被為成」〔鎌倉市史・寺社編 p.346〕と記されている。「大坂陣山口休庵咄」〔續々群書類從 収録〕などにも、国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、淀君の妹の京極高次妻・常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持に入れて城内に運びこんだとあるため、天秀尼もそれまでは他家で育てられ、国松と同時期に大坂城に入り〔三池純正2013 pp.120-123〕、落城後に千姫の養女となったと見られる〔川口素生2011 (Q.62)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天秀尼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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