翻訳と辞書
Words near each other
・ 天竜舟下り転覆事故
・ 天竜船明テレビ中継局
・ 天竜郵便局
・ 天竜長沢テレビ中継局
・ 天竜阿蔵テレビ中継局
・ 天竜高校
・ 天竜高等学校
・ 天章周文
・ 天童
・ 天童なこ
天童の戦い
・ 天童よしみ
・ 天童インターチェンジ
・ 天童オルゴール博物館
・ 天童バスターミナル
・ 天童一中
・ 天童三中
・ 天童二中
・ 天童八楯
・ 天童公園


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

天童の戦い : ミニ英和和英辞書
天童の戦い[てんどうのたたかい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てん]
 【名詞】 1. heaven 2. sky 
天童 : [てんどう]
 【名詞】 1. cherub 2. gods disguised as children 3. children parading as cherubs
: [わらべ]
 【名詞】 1. child 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

天童の戦い : ウィキペディア日本語版
天童の戦い[てんどうのたたかい]

天童の戦い(てんどうのたたかい)は、出羽国天童で行われた、庄内藩を中心とする旧幕府軍と、新政府軍による戊辰戦争の戦い。
== 経緯 ==
庄内藩の首脳部は戦争不拡大の方針であったが、清川口の戦いの勝利後、4月25日酒井順孝(兵部)を大将とし大網口から六十里越街道を通って柴橋陣屋を急襲した。また同じころ中村次郎兵衛は左沢(大江町)へ行き200名の民兵隊を組織した。酒井了恒は清川に着任したころ既に戦闘が終わっていたため、新庄領への侵入を試みたが通過困難と分かり大綱口からの侵入に切り替えた。4月27日庄内勢は谷地(河北町)北口の新庄藩陣屋に討ち入り書類を奪って火をかけた。この日酒井順孝は柴橋陣屋に名主を集めて年貢半減を約しこれまで通りの行政を安堵した。翌28日、天童勢が寒河江に攻め込むという報に接し、庄内勢200が日田(寒河江市)を捜索した。翌29日天童勢が最上川を渡河し日田へ攻め入ったので銃撃戦を行い撤退に追い込んだ。
閏4月1日庄内勢・米沢勢が続々と寒河江に入り、総勢1000名程となった。翌2日酒井了恒率いる600が谷地へ入ると翌3日軍議を開き天童を攻撃することが決まった。時を同じくして、最上川西岸に庄内軍が集結しつつあるとの報に接した鎮撫軍はも3日夜軍議を開き、5日に谷地に攻撃するように厳命した。翌4日庄内軍は酒井了恒および酒井順孝が先制攻撃をしかける。酒井了恒は谷地(河北町)から500名を率い、順孝は寒河江から500を率いて渡河して天童本陣を目指し、中村次郎兵衛が組織した民兵100は左沢(大江町)から最上川を下り山形藩の援軍が拠る落合(中山町)を落とした。
庄内勢は天童を攻撃して天童城と市街の南半分の230戸を焼討ちにした。これは庄内藩主の命令なき現地軍の暴走であった。天童藩主織田信敏・隠居織田信学は仙台に逃れ、吉田大八は老野森(天童市)の民家に潜んだ。山形藩援軍は山形に、館林藩(寒河江市日田)は漆山(山形市漆山)、松前藩は東根に逃走した。その夜了恒は楯岡(村山市)に順孝は長瀞(東根市)に帯陣するが翌5日藩主からの命により谷地に引き揚げた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「天童の戦い」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.