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天童 頼澄(てんどう よりずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。最上八楯と称される里見氏庶流天童氏の第17代当主。天童城(舞鶴城)主。 == 生涯 == 村山郡天童城主天童頼貞の子として生まれる。はじめは頼久と名乗った。 最上氏とは縁戚関係にありながらも最上義光とは敵対し、また母が伊達氏の重臣・国分盛氏の娘だったことなどから、伊達氏らと結び最上氏と鎬を削った。堅城である天童城や、最上八楯らの支援にも助けられ膠着状態が続いたが、最上八楯の最有力者である延沢満延が、最上家臣氏家守棟の調略によって義光側へと寝返ると一気に形勢は最上方に傾き、内応者が続出した。天正12年(1584年)10月〔『伊達治家記録』による〕、天童城は落城した〔天童城の落城時期は、良質な資料が少なく、1577年~1584年の間で諸説あり、確定していない。〕。 頼久は母の実家の国分氏を頼って落ち延び、その後は秋保直盛に依り秋保に寄寓した。天正18年(1590年)1月13日、頼久は御礼として政宗の黒川城に登城した〔1月7日に政宗は「七種ヲ一葉ニヨセテツム根芹」と句をうたっている。この年の正月は御祝として多くの家臣が黒川城に登城した。前日には伊達家の一家・一族の輩が登城し御礼している。〕。文禄年中、伊達政宗より家格準一家を命ぜられ、采地1000石を宮城郡利府邑に賜った。後に頼澄と改称し甲斐と名乗った。 子がいなかったため、留守政景の次男が養嗣子となり、天童重頼と称した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天童頼澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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