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近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日)〔『幕府祚胤伝』の記述(享年80)では寛文2年(1662年)生まれになるが、ここでは母親・常子内親王の日記『無上法院殿御日記』に記された生年月日で記述している。〕 - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王〔生母は家女房の西洞院氏とする説もあるが『無上法院殿御日記』において品宮本人が寛文六年三月廿六日四時分に熙子を出産したと記録している〕。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。 == 生涯 == 延宝元年(1673年)、徳川綱豊(後の家宣)に嫁ぐ。父・基熙にとってこの結婚は「先祖の御遺戒である武家との結婚の禁忌に背く」と日記(基熙公記)に記しているように不本意なものであり、「飢餓に及んだとしても」承諾できないとしていた。結婚前に水戸家の徳川光圀の養子綱條との縁談があったが、基熙はこれを断っている。ただし、基熙の伯母泰姫は光圀に嫁いでおり、実際に先祖の遺誡があったかどうかは不明である〔山本博文『徳川将軍家の結婚』ISBN 4166604805、72-77p〕。しかし幕府からの正式な要請は断ることが出来ず、「無念々々」としながらも縁談を承諾した。このため結婚前に、熙子は近衛家の門葉である権中納言平松時量の養女となって嫁した。この養女縁組は幕府側から見ると、幕府を侮辱する行為以外の何物でもなかったために、近衛親子と時量以外には秘密であった。このため、熙子の扱いは近衛家の娘のままであった。 綱豊との仲は良好だったらしく、2人の子供(長女・豊姫、長男・夢月院)を儲けたが、いずれも夭折する。そのことで彼女は嘆き悲しみ、そのためかいずれの子供も徳川家とは別に日蓮正宗常泉寺にて戒名を授かる。30年後に夫・綱豊は6代将軍に就任、熙子は御台所として江戸城大奥に入った。これにより、当時朝廷において閑職にあった父・基熙は将軍の岳父となり、宝永6年(1709年)には江戸時代最初の太政大臣に就任するなど権勢を振るった。このため、霊元法皇は基熙を呪詛する願文を上御霊神社に納め、皇室の影響力を高めるために皇女八十宮吉子内親王を家継の御台所にしようと奔走するようになる〔山本博文『徳川将軍家の結婚』、80p-85〕。 大奥に入ると夫婦生活は甲府時代とは一変し、憂鬱な生活を送ったといわれている。お喜世の方(のちの月光院)が側室に迎えられたことによって、さらに疎遠になった。正徳2年(1712年)に夫・家宣は病により没し、熙子も落飾して院号を天英院と号する。お喜世の方が産んだ家継が将軍宣下を受けたのに伴って従一位を賜り、一位様と呼ばれた。月光院とは不仲であったといわれ、御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代門閥層と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったという説がある。しかしその後は仲も良好になったらしく、家継が病気で危篤状態になり、嘆き悲しんでいた月光院を励ましたと言われている。家継への八十宮降嫁にあたっては、月光院とともに主導的な役割を果たしている〔。 家継の早世後、紀州藩主の徳川吉宗を8代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、また吉宗に正室が不在だったこともあり、将軍家女性の筆頭としてその後も大奥に権勢を振るい、幕府における発言力も絶大であったといわれる。日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進した。また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進した。 寛保元年(1741年)、76歳で没した。戒名は天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近衛熙子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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