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天野 宗歩(あまの そうほ(「そうふ」とも)、文化13年(1816年) - 安政6年5月13日(1859年6月13日))は、江戸時代末期の将棋指し。正字表記では天野宗步。七段。十一代大橋宗桂門下。 大橋家、伊藤家といった将棋三家の出ではないため、当時世襲制だった名人には推挙されず、段位も七段までしか上がらなかったが、「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれるようになる。十三世名人関根金次郎によって棋聖の称号が公式に認められた。現在のタイトルのひとつである「棋聖戦」は、ここに由来する。 == 経歴 == 大橋家に残された「天野宗歩身分留」という古文書には、武蔵国の生まれとある。 文化13年(1816年)11月、江戸の本郷菊坂にて、小幡甲兵衛の次子として生まれる。幼名は留次郎。後に天野家の養子に入る。 文政3年(1820年)8月、5歳で大橋本家の大橋宗金(十一代大橋宗桂)の門下となる。同5年(1822年)の加藤看意との四枚落ち戦が、記録にある最古の棋譜である。同9年(1825年)、初段となる。同12年(1829年)、14歳で二段となる。天保元年(1830年)12月、15歳で三段となる。同3年(1833年)、17歳で四段となる。5月24日に中橋木屋忠右衛門方で弘めの会を催している。 同4年(1834年)3月、五段に昇段する。上方に旅立ち、同年6月5日に大橋柳雪と左香落で対戦する。同5年(1834年)9月、江戸に戻ったが、同6年(1835年)3月下旬には再び上方に旅立つ。途中、沼津において米村利兵衛と平手で4戦している。そのまま上方で生活するようになる。 同13年(1842年)、江戸に帰ったが、同14年(1843年)には再び京都に戻り、妻帯する。 弘化2年(1845年)6月、江戸に戻る。富次郎と改名する。同年9月26日に神田松永町の甲州屋佐吉方で六段弘めの会を催す。ここで伊藤印寿(後の八代伊藤宗印)と左香落で対戦する。 同3年(1846年)9月、七段を許される。同年11月、弟子の市川太郎松を伴い京都に上る。 同4年(1847年)5月2日、大阪難波新地において七段弘めの会を催す。 嘉永2年(1849年)5月24日、妻が死去する。同3年(1850年)、妻のために京都深草霊光寺の初代宗桂の駒形の墓碑の隣に同じく駒形の墓碑を建立、「歩兵」と刻む。台石には宗歩門下の49名の名が刻まれた。 同5年(1852年)5月、別家を許され、剃髪して宗歩と名乗る。十一代大橋宗桂ら将棋三家の推薦を得て御城将棋に出仕が許されている。 同6年(1853年)正月、定跡書『将棋精選』を開板する。 安政元年(1854年)、奥州路の旅に出る。同2年(1855年)、越後路の旅に出る。 同3年(1856年)、御城将棋に出勤。これが宗歩最後の御城将棋となった。後妻のフサとの間に宗次郎をもうける(7年後に夭折)。 同4年(1857年)春、市川太郎松、渡瀬荘次郎を伴い越後路の旅に出る。御城将棋は欠勤し、同5年(1858年)正月まで旅先で過ごした。 同6年(1859年)3月28日に市川太郎松と右香落で対戦。26手で指し掛けとなった。これが宗歩の絶局となる。同年5月14日に死去。44歳であった。 晩年の宗歩は将棋は強かったが、素行は悪く、酒色に溺れ賭将棋をしていた記述が残されている。『天野宗歩身分留』には、表向きは病死ということで寺社奉行に届け出たとあり、実際の死因は別であった可能性がある。 法名は玉用院名宗日歩居士。墓所は東京巣鴨の本妙寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天野宗歩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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