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太原作戦(たいげんさくせん)とは、日中戦争中の1937年(昭和12年)9月から11月までの間、日本の北支方面軍及び関東軍部隊によって行われた、山西省太原への進攻作戦である。太原攻略戦、山西作戦(さんせいさくせん)などとも呼ばれる。中国側呼称は太原会戦。 == 背景 == 1937年(昭和12年)の盧溝橋事件後、日本軍は北支那方面軍主力の平漢線・津浦線南下作戦を側面援護するため、8月中旬から第5師団と関東軍による察哈爾作戦を開始した。9月中旬、大同付近(内長城線外)を占領して作戦が一段落すると、方面軍司令部は広霊の第5師団に対し、河北省保定へ転進して平漢線沿いの作戦に参加するよう命令した〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、335-336項。〕。 方面軍の催促にもかかわらず、第5師団はすぐに転進しようとはしなかった。この時、閻錫山の山西軍(第2戦区軍)は内長城線沿いに集結して防御陣地を強化中であった。第5師団長板垣征四郎中将は、この敵軍を攻撃して長城を突破し、中国軍主力に打撃を与えて転進を容易にしようと決心していた〔。参謀本部や方面軍では、山西省を攻略するか否かについて意見が分かれていたが、第5師団との連絡は途切れがちで、師団の実情がはっきりわからなかった〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、338-339項。〕。また、中央は関東軍部隊をこれ以上前進させるつもりはなかったが、第5師団に同調している関東軍察哈爾(チャハル)派遣兵団 (長:東條英機中将〔東條英機中将(関東軍参謀長)は、9月22日、新京に帰還し、笠原幸雄少将(同参謀副長)に交代。〕)は積極的に内蒙や山西を攻略しようとしていた〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、317-318項。〕。 9月19日、板垣中将は''「北支においてはおおむね綏遠―太原―石家荘―済南―青島の線を占め、ここに包合する資源を獲得し、そこに住む一億民衆を同僚として新北支政権を結成するを可とす」''という意見を、私信として多田駿(参謀次長)・石原莞爾(参謀本部作戦部長)・寺内寿一(北支那方面軍司令官)の3人に発信した〔。参謀本部では、山西作戦を有利と考える武藤章作戦課長が、不拡大派で作戦に難色を示す石原と多田を説得した〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、339-340項。〕。板垣との関係が密接である石原部長は、滅多に手紙を書かない板垣からの熱心な意見に動かされた、と後年回想している〔森山、120-121頁。〕。参謀本部作戦課では、板垣の意見した地域を占領確保する考えに固めようとしていた〔。 上海戦線へ大規模な増援を派遣する事態となって、石原作戦部長は辞表を提出した。不拡大派の石原が辞任した3日後、太原攻略の大命が参謀本部から下されることとなった(10月1日)〔森山、120-121頁。〕。一方、北支那方面軍司令部でも第1課が山西作戦を要望していたが、第5師団を転進させるという寺内軍司令官の考えは変わらなかった。ところが10月1日、参謀総長から突如として太原攻略の命令を受領したため、すでに長城平型関を突破していた第5師団に対し太原攻略作戦の準備を命じた〔〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、369項。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太原作戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Taiyuan 」があります。 スポンサード リンク
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